不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生
ヘンリエッタ・ラックス、1951年に子宮頚癌で亡くなった黒人女性である。その名前を耳にしても、彼女のことを知っているものは数少ない。しかし、ヒーラ細胞と呼ばれる彼女の細胞は、科学者の間では知らぬ者がいないほどの、世界一有名な細胞である。
彼女の身体から採取された癌細胞は、医学界に大きなインパクトを与えた。それまでの数十年間、科学者たちはヒト細胞を培養化で生き続けさせようと奮闘してきたが、一度として成功したためしはなかったのだ。しかし、ヘンリエッタ・ラックスの細胞は、24時間ごとに自らの完全な複製を生み出し、とどまることがなかった。かくしてヒーラ細胞は、世界で初めて研究室内で培養された不死のヒト細胞となったのである。
人類の究極の夢、不老不死。その魅惑に取りつかれた者は、英雄達の中にも数多い。始皇帝、織田信長、サン・ジェルマン伯爵、ナポレオン。不死細胞ヒーラを取り巻く、壮絶な人間模様も、人類の不老不死への憧れと無縁ではないだろう。
ただの癌細胞でありながら、ここまでヒーラ細胞が役立った理由は、正常細胞の基本的性質を数多く供えていたからである。ヒーラ細胞は、正常細胞と同じように、たんぱく質を生成し、互いに情報をやり取りし、分裂時にエネルギーを生み出し、遺伝子の発現とその制御を取り行う。今までに培養されてきたヒーラ細胞をすべてつなぎ合わせると、地球三周はすると見積もる科学者もいる。その不死性を武器に、ポリオのワクチン、化学療法、クローン作製、遺伝子マッピング、体外受精をはじめとする医学の重要な進歩に大きく貢献し、はては無重力空間でのヒト細胞のふるまいを調べるために、初期の宇宙ロケットにも積まれたという。
正常なヒト細胞は、分裂回数が決まっており、およそ五十回分裂すると限界に達する。細胞が分裂するたびに、テロメアと呼ばれるDNA配列が短くなっていくためである。これが、癌細胞の場合、テロメアを再構築するテロメラーゼという酵素が含まれており、細胞が自らのテロメアを無限に再生することができる。この不死性とヘンリエッタの細胞が持つ旺盛な増殖力があいまって、細胞に永遠の命をもたらす。これがヒーラ細胞の不死のメカニズムである。
本書は、ヘンリエッタ・ラックスの人生、ヒーラ細胞を取り巻く科学者たちの話、著者と遺族を巡る話という三つのストーリが交錯することで成り立っている。特に、後半の遺族をめぐる話には、考えさせられる要素が多く含まれている。
一番重要な問題は、これだけ医学に貢献したヘンリエッタ・ラックスの子孫たちが、医者にかかることすらままならない境遇に置かれていたということである。もしその当時に、インフォームド・コンセントという概念が確立していたら、もし彼女が黒人でなかったら、もし医学の倫理観がもう少し発達していたら、その運命は大きく変わっていたのかもしれない。
そして、突きつけられのは、いったい細胞とは誰のものなのかという命題である。たとえ、自分自身の細胞でも、ひとたび身体を離れると、本当に自分の持ち物ではなくなってしまうのだろうか?
ヒトとヒトを構成する細胞、その関係は単純な足し算や引き算では答えることのできないものである。現に、彼女の細胞のDNAには、自身のここまで数奇な運命は記述されてはいなかったであるだろうし、彼女が死んでも細胞は今なお生き続けている。ヒーラ細胞を足し合わせてもヘンリエッタにはならないし、ヘンリエッタを分割してもヒーラ細胞にはならないのである。
人類が夢見た不老不死の世界は、決して夢のような幸せな世界ではないのかもしれない。それも、ヒーラ細胞が教えてくれたことの一つである。