木山捷平全詩集 (講談社文芸文庫)
木山捷平全詩集 (講談社文芸文庫)えっ、木山捷平は詩を書いてたの?そうなんです。彼は少年の頃から詩人を目指しましたが、志を得ず、若い頃2年ほど兵庫県の出石で小学校の教員をして暮らしました。この村での経験もさることながら、幼い頃から郷里の田舎で直に知っていた風物、貧しい農民たちの生活と心情こそが、彼の詩心の変わらぬ水源でした。田舎であれ、都会であれ、貧しさが人の心をいじけさせ、ねじ曲げる無念さを、われ人とともにかみしめながら、一日中地べたを這いずるようにして働く者たちが、ふと一日の終わりに夕空を見上げて、その美しさに黙って見入る気持ちに似た何かが、いつも彼を詩へと駆り立てたのでしょう。
後に小説家に転じますが、創作のモチーフは若い頃の詩の中に芽生えとしてあった、それを大事に育てたと言っても過言ではありません。今から五、六十年前までは、捷平さんが詩や小説の中に書いたような人物、彼らと同じような生活感情が、田舎でも都会でもごく当たり前に見られたことに、今さらのように驚きます。そういう意味でも彼の詩は貴重ですが、彼の場合どういうことが〈詩〉になるのか、その見本に一篇の詩を引いておきましょう。
「子もない/孫もない/おぢいさんとおばあさん。/うす暗いカンテラの下で/よなべに/わらすべをぬき終わったら/もう夜がふけてゐた。/おばあさんは/トントンと/おぢいさんの肩をたたいてやった。/おぢいさんは/トントンと/おばあさんの肩をたたいてやった。」
ちなみに、「わらすべ」は「わらしべ」とも言い、稲わらの芯のこと。これを抜いて集め自家用のほうきを作ったり、編んで下駄や草履の鼻緒をすげるのに用いた。また業者に売り家計の足しにした。
なずな
主人公は40代独身のローカル新聞記者。
弟夫婦の体調不良・事故などの理由で、生後間もない姪っ子「なずな」を引き取る。
もちろん子育てしたことのない彼は、
たびたびのミルク・排泄・入浴などの世話に明け暮れ、疲弊する。
しかし、なずなを連れてあるくことによって、
今まで接点がなかった人たちと関係を築き、またなずなの視点から
新しいものが見えてくる。
なずなの視点でものをみることで、周りの空気を感じ、その中の粒子まで、
感じるようになるのだ。
そして、弟夫婦の状況が改善し、なずなを手放すとき、
彼は悟る。なずなを守っているように思っていて、実は彼女に守られていたのだと。
男性が描く、乳児の様子が、女性が描くものととても違うなと思いました。
冷静に、観察しているという感じ。でも堀江氏の客観的な描写の底辺には
いつも静かな愛情を感じてしまう。
大きな事件があるわけでもなく、静かな毎日の繰り返しと小さな変化を描く、
読んでいて心が豊かになるような小説でした。
木山捷平 (ちくま日本文学全集)
木山捷平が静かなブームであるという。木山は決して大小説家でもないし、人間の内面を鋭く描くといった鬼才でもない。いわば普通であることの価値を小説という形で表現したマイナー・ポエットと言えよう。しかし、マイナーだからこそ今の時代、素直に受け入れることができるのかもしれない。
本書には初期の詩から晩年の珠玉のような短篇までが網羅され、恰好の木山捷平入門の一冊としておすすめ。その中で特に『下駄の腰掛』は木山自身も気に入っていたという、いかにも彼らしい作品。ある日、銭湯に出かけた主人公(ほぼ木山本人と考えていい)は、銭湯がまだ開いていないので、入口付近で自分の履いてきた下駄を腰掛けにして、往来を行き来する通行人の足元を眺めることになる。そこから過去のある場面に連想が飛び、とりとめのない、けれども味わい深い木山ワールドが繰り広げられる。やさしくあたたかい気持ちになれること請け合いの一冊である。
長春五馬路 (講談社文芸文庫)
あの戦争が終ったばかりの長春では、十万もの日本人が死んだというが、この作品に、それらは表だっては描かれない。日常、何が起きようが適応して生きてゆく人がいるし、適応できない人もいる。ボロ市のたつ五馬路を主な舞台に、主人公をめぐって展開する諸事、人々(特に女性)の姿や行動が、淡々と時にユーモラスに描かれる。最後の場面だけは、満州国に対する風刺か。
この小説を読んで、登場する人々がそれぞれ魅力というか個性をおびた生き方をしていると感ずる。あの戦争を思想的に支えた「日本浪漫派」に参加した作家の作品とは思えない。この作品は、著者の長春体験から20年余にわたって書き継がれ、没後間もなくにして発表された。長い間に木山の脳裏で析出し結晶したことが描かれていることになる。登場人物にも出来事にも、輝いているのはそれら結晶である。