ウルトラマンをつくった男 金城哲夫物語 1/6
ウルトラマンをつくった男 金城哲夫物語 1/6
那覇高校の受験に失敗、上京して玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科卒業。玉川時代に、恩師である上原輝男の影響を受け、脚本に興味を持ち始める。一度帰郷し映画『吉屋チルー物語』を製作。上原より教え子の一人だった円谷皐を介して円谷英二を紹介され、東宝特撮映画で健筆を振るっていた関沢新一からシナリオライターとしての手ほどきを受ける。関沢の薫陶による「ポジティブな娯楽(エンターテインメント)志向」は以後の金城の作風の根幹を成した。 1963年に円谷プロダクションへ入社、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが送り出した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛けた。順風満帆かと思われたが、大人向けの特撮を目指し鳴り物入りでスタートした1968年の『マイティジャック』は、平均視聴率が8.3%と低迷したために1クールで打ち切りとなってしまう。「円谷プロが手掛けた番組は高視聴率間違いなし」という神話が崩れ、初めての挫折感を味わった。挽回を図った『怪奇大作戦』は、平均視聴率22%と健闘したものの、スポンサーが「ウルトラに比べて低い」という判断を下したために、予定の2クールで終了。番組の受注が途絶えた円谷プロは、経営状態の悪化に伴い大幅なリストラを敢行し始める。その煽りで文芸部も廃されて以前のような発言力を失った金城は、悩んだ末1969年に円谷プロダクションを退社する。沖縄県に帰郷しラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍したが、円谷プロ時代のような才能の輝きを見せるまでには至らなかった。 1976年2月23日、泥酔した状態で自宅(後述の「松風苑」の敷地内。現在資料館)2階の仕事場へ直接入ろうとして足を滑らせ転落[3]。直ちに病院に搬送された ...
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