われ逝くもののごとく (講談社文芸文庫)
終戦後の庄内地方の地理や風俗、信仰などが方言をベースとした人間関係描写で記述され物語が進む。前半では話題展開の遅さと展開のしつこさを非常に感じ疲れた。後半は展開が早まり一気に読みたくなったが、「逝く」ことがキーワードであるものの展開の唐突さや不自然さを感じ続けた。最終章で標準語の語りで総括がなされる。読後感はひとそれぞれの違いが際立つ作品と言えそうだ。「月山」を先に読むことをお薦めする。
森敦との対話
世間的には無名のインディーズ作家でありながら、小島信夫や三好徹などの「小説の師」として彼らの原稿に手を入れていた無名時代の森敦。倒産仕掛けの印刷会社に勤めながら、全く自らの作品を書こうとしない森を叱咤激励し、校正までも手伝った弟子&養女による「月山」誕生までの秘話。
凄まじく世間からズレまくった森夫妻を支え続けたその姿は、苦行の趣きすら読む者に与える。それにしても、作品もそうだが一人の人間としても、森敦という作家には謎めいた魅力がある。そうした彼の魅力を味わうには、著者が主催する森敦の公式ホームページも助けになるだろう。
未読の方はまず「月山」を読んでいただき、その後にこの本を読むことをオススメします。
月山・鳥海山 (文春文庫 も 2-1)
雪深い月山に抱かれた村、七五三掛(しめかけ)で、
森敦は、ひと冬の間に輪廻転生を見た。
描かれる情景は、比喩も、現象も含めて、すべてが生老病死を描いているようで、
おろそかに読み飛ばすことができない。時々頁から目を離し考える。
生(ばさまの卑猥な歌、若後家の性的な誘い、祭り、ゴムひもや歯ブラシの押し売り
狂ったようにさかりのつく雌牛、密造酒づくり)
老(足の萎えた寺のじさま、毎日割り箸をつくるじさま)
病(甘酸っぱいいとこ煮、狂ったようにさかりのつく雌牛)
死(天の夢を見る蚕、行き倒れのミイラ)
先ず、「生きる」を語る描写が多いことに気づく。
中で、月山はなんの比喩なのか、それともそこにあるという現実なのか。
森敦は、何度かででくる月山を、同じ言葉で形容する。
それはおそらく、ある意図があってのことだろう。
「臥した牛のような月山」
レトリックなら、違う形容にした方が良さそなものなのに
何度出てきても
「臥した牛のような月山」
しかも月山に触れるときは、もう形容は必要ないと思われるのに
「臥した牛のような月山」
月山は変わらないものを象徴しているのである。
それは「死」であろう。
作品の冒頭に掲げられる論語
未だ生を知らず
焉ぞ死を知らん
私なら拙いがこう、訳そう。
「死(す)んでもどうなっが、わがんねべ、ンだがら、とりあえず生ぎてみっべ」
主人公はひと冬を輪廻転生の村で暮らし俗界に戻っていく。
俗界にいるぼくはたまらなくこの村に行ってみたくなる小説である。