オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)
上に書いたのは、本文中でオリガが発するセリフです。 反語法って、言語学にまつわる話なのかな?とか予想していたら、思っていることとまったく反対の意味の皮肉を込めた、罵詈雑言のことでした。 本を読めばすぐ分かりますが、人間というものの本質にまでも迫る秀逸なタイトルだと思います。
現代日本社会に生きている私たちにとって、この本に書かれている内容はショッキングです。過酷な時代を生き延びていくためにオリガが身につけた反語法−それがユーモラスかつ美しいものにまでなって私たちの心に響いてくるところに米原さんの筆力を感じさせられました。ただ、小説としては、関係者たちの証言が間接的にえんえんと続く部分が多く、すでに“嘘つきアーニャの真っ赤な真実”を読んでしまっている読者にとっては、やや臨場感が薄い事は否めない気がします。 “アーニャ”の場合、すべて米原さん自らが、当事者たちの口から証言を聞きだしていたのですから。 これを小説デビュー作として、さらに2作、3作、とすごいものを発表していただきたかったのですが、突然のご逝去によりかなわぬ夢となってしまいました。 こんな骨太な作品は昨今少ないだけに、日本小説界にとって大変な損失です。
パーネ・アモーレ―イタリア語通訳奮闘記 (文春文庫)
イタリア人がいかに女好きか、いかにいい加減か、がよくわかる。そしてイタリア語通訳には、それをモノともしない度量の大きさがいかに必要かということも。
「コールガールと間違えられて値段をつけられて(ちょっとうれしい)」と思えるくらいでないとやっていけないことも(?)よくわかる。
イタリア人のいい加減さに苦笑すると同時に、通訳現場の厳しさには感心させられる。
嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)
1960年代、マリはプラハのソビエト学校に通う日本人少女だった。同級生の中でもとりわけ仲がよかったのは3人。共産主義者の親とともに亡命してきたギリシア人のリッツァ。ルーマニアの外交官の娘アーニャ。そしてボスニア・ムスリム系ユーゴスラビアのヤスミンカ。鉄のカーテンの「向こう側」で少女たちは、大人たちの政治的思惑とともに生きざるを得なかった。
そして90年代、東欧を襲った民主化の大きなうねりの後、マリは3人のその後を訪ねて歩くことになる。
先ごろ亡くなった米原万里氏の著作を手にするのはこれが初めてではありません。しかし残念ながらこれ以前に触れた書は、どうにも露骨な下ネタが多くて、おもわず引いてしまうようなものが多かったのです。
この大宅壮一ノンフィクション賞受賞のエッセイは違いました。1960年代にプラハのソビエト学校で机を並べた3人の個性的な同級生たちのその後を通して、現代東欧民衆史を鮮やかに切り出してみせる名エッセイです。「アーニャの嘘」に隠された真実を追う過程は、北村薫のミステリーを読むような高揚感と、真実の持つ悲しさとを味わわせてくれます。
ですが、30年近い時を経て知る旧友たちの真実は、それでもまだ確たる真実とはいえぬ、ひとつのものをある一方向から見たものでしかないのかもしれない、というやりきれなさも感じます。アーニャの一家のその後の経緯をどう見るか、真実はひとつであるはずなのに、兄のミルチャの言い分、アーニャの母の言い分、そしてまたアーニャ自身の言い分はまるで違います。過去において共産主義とどう向き合ったのか、その度合いによって生まれた心の亀裂は、共産主義が終焉した後も決して埋まりません。
家族を引き裂いたまま共産主義は去っていったということを、痛ましくも感じさせる少女たちの物語です。
打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)
2006/5に癌で他界した米原万里の書評集。週刊文春に連載されていた「私の読書日記」を完全収録している。
特に印象に残るのが「私の読書日記」の最終三回に連載された癌闘病日記。様々ながん治療に対する冷徹な批評、分析を行ないながらも、著者の生きたいという強い願いが行間からひしひしと滲み出てくる様に感涙。
嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ)
わたくし、米原さんの著作をほとんど読んでおりますが、
著者の死後(そんな日がなるだけ遠くなるのを願いますが)
必ずや3本の指にはいるであろう傑作だと思います。
米原本の魅力は、ご自身の体験を知的にもシモネタ的にも
実に面白がらせてくれる点ですが、この本は加えて、
実話でありながらハラハラドキドキさせてくれる小説的おもしろさと、
読後ホロリとさせられる寅さん的人情話風味があるのです。
実におもしろい本でした。
あと、「ヒトのオスは飼わないの?」(文春文庫)もオススメ。
ホロリ感もあるし、動物苦手なわたしがちょっとペットを飼ってみたく
なりました。動物好きな方にはとくにたまらないストーリーだと思いま
す。