秋葉原耳かき小町殺人事件 ~私たちは「異常者」を裁けるか~ (ワニブックスPLUS新書)
「正常でなくなることが"正常な"証だから躁鬱云々で誤魔化すな」との主張や、被害者の隙をタブー化した検事・裁判員への批判は理解できるが、「犯人が破壊したのは、源氏名を持つフィギュア(人形)だった」とのレイモンド・チャンドラー的「強い男」礼賛俗説なレッテル張りでは、「どうしたら防げたか=再発防止」に及ばぬ甘さは尚残る。本件が「耳かき小町」なる「肉体関係化をタブーとする(から尚更拗れた、との著者の診たては正しいが)心理系ヒーリング接客嬢」を「ストーカー」特有「見捨てられ不安」に駆られ縋って殺した「アダチル」極まるストーカー典型、しかも「法を犯し多数客を騙して貢がせぬと祖国夫子を養えぬ」出稼ぎ女性背景さえ今や邦人の!被害者に迄及ぶ今日(戦前!)的貧困の典型、即ち心理・経済両面難題が極まった事件だからだ。宮部みゆき「火車」や小谷野敦「もてない男(後書き)」が示した「"要らぬ空気読んで"偽装してまで適応しないと許さない」圧力が「偽大人」とその犯罪を量産するとの前提が本書に足りぬのは残念だ!
幻影城の奇術師 (魔界百物語03)
はずれ続きの吉村先生。
やっと面白いのをありがとう。
久しぶりに初恋、文通くらい面白い作品でした。
次が楽しみです!
変にたくさん書かなくていいのでこのくらい面白いのを定期的に出してくれれば
それでいいです。
オススメの一冊ですよ。
憑依‐HYOU・I (角川ホラー文庫)
偶然出会った女性は、父親の犯罪を語り始めた…。そして憑依現象は恐るべき真実を見せる。
興味本位で買ったんだけど、結構面白かったです。物語中盤で真実が分かるので、後が少しダレちゃう感があるけれど、少しでも興味あったら読んで損は無いと思います(あまり考えて読まないほうがいいよ)。イヤ〜、読み終わってからなんだか肩が重くなった気が…(何か憑いてる?)。
遺恨あり 明治十三年 最後の仇討 [DVD]
2012年2月20日に光市母子殺害事件の裁判で最高裁が被告人の上告を棄却し、
死刑判決が確定した。との報道がありました。事件が発生してから13年目のことだ
そうです。色々な面で2011年2月にテレビで放映された。『遺恨あり…』 のドラマ
に重なるものを感じ、今回DVDを改めて見させて戴きました。
同じ事件を題材にした、吉村昭 著の本『最後の仇討』も読みました。こちらは、
残された史実に基づく六郎の行動にそって書かれた、推測される事項を挟まない
客感的な歴史小説であると思います。
それに対しこのドラマは、山岡鉄舟、中江正嗣、等々六郎と共に事件に係わった
人達の姿を描き込んだ人間ドラマとして、より踏み込んだものになっています。
ドラマでは重要な位置を占める、なかと言う女性は、本の方では“最初に事変に
気づいたのは下女のなかで… ” と書かれているだけであとは一切登場しません。
ドラマの予告編で、なかは六郎を献身的な愛で支える女、と表現されています。
確かに六郎に対する愛はあると思います。しかし、なかを動かしたものは、無惨に
殺された父と母の無念を晴らそうとする、六郎と同じ気持ちなのではないのでしょうか。
六郎も自分の信条を察し泣いてくれた、なかの姿に同じ目的を持った 同志 を
感じたのではないのでしょうか。だからこそ六郎は、なかから情報を貰い金銭的
援助も受けたのだと思います。そしてそれは、「これは六郎様とうちのふたりだけ
の戦いだっち」と言うなかの言葉に表れていると思います。
もうひとつ本にはない点で、六郎と敵の親族と係わりが描かれています。
終身刑を宣告された六郎が恩赦で10年で出獄できたのち、討ち果たした敵の妻
のさとに詫びる場面でふたりの交わした言葉に、感じいるものがありました。
被害者の感情が刑罰にどう反映されるか。それは現在にも通じるものがあります。
被害者が敵を討てば被害者だったものが加害者と同じ人殺しになり、かつての自分
と同じ被害者を作ってしまうこと。
罪を償うと言うことは単に刑期を勤め上げるだけではなく、被害者に本当に許して貰うこと。
人を殺したものは死ぬまでその罪の重さに耐えて生きて行かねばならないこと。
そのおり、敵 一瀬の息子が他人のことを気遣う優しい少年に成長しているのを見て
六郎は自分と同じ悲劇の道?を、歩まなかったことに安堵を覚えたのではないでしょうか。
最後は、仇討のみを目的に生きてきた六郎がそれから開放され、少しずつではあるが
人間的な普通の人生を歩み始めた様に感じました。
余談ですが、松下奈緒さん演じる、なかのきもの姿が、カメラを引いたアングルから
写し出されたシーンは、174cmの長身が映えて、まさに八頭身のすばらしいシルエ
ットだったのが印象的でした。この時代こんなきもの美人は居なかったでしょうね。
長々と失礼しました。