ことば汁 (中公文庫)
巻頭の「女房」以外はすべて婚期をのがして中年になってしまった女性たちが主人公になっている。だが、そこに展開される物語は悔恨や憔悴や痛みだけにとらわれない、ある意味幻想的な世界を描いており、おもわず引き込まれてしまう。例えば、「つの」は老齢の有名な詩人の秘書をしている女性が主人公なのだが、恋多き浮世離れした飄々たる老詩人に仕えて結婚もせず、かといって詩人と深い関係になるわけでもない微妙な距離感がエピソードにのって浮き彫りにされ、尚且つ後半にはそれが思わぬ形で表出する演出が秀逸である。また続く「すずめ」ではカーテンを扱う店を経営する女性が体験する現実離れした出来事が描かれてぐいぐい読ませる。ここに登場する「舌きり雀」の話は作者の創作なのだろうか?それとも別バージョンとして残っているものなのだろうか?なんとも興味尽きない。「花火」は一旦は結婚していたが、離婚して両親の家に帰ってきている女性が描かれる。淡々とした筆勢でよくある期待と消沈の物語が進められていくのだが、途中にはさまれるエピソードがなんとも怖い話だった。「野うさぎ」は物語を書けなくなってしまった作家が主人公。だが、彼女が体験する出来事は破滅と再生の間を目まぐるしく行き来してなんとも息苦しい。刹那的な生き方に共感と恐れを抱いてしまう。「りぼん」は友人を事故で亡くしてしまった女性が、遺品として大量のりぼんを引き取るところから紡がれる物語。不穏な雰囲気が漂う中、これも幻想味が顔をのぞかせ、ぱちんと閉じてしまう。後先になったが巻頭の「女房」だけは若いカップルが描かれる。ザリガニのわしゃわしゃ動いてる様がなんとも印象的な一編。タイトルの意味がラスト近くまでわからなかった。おもしろい。というわけで、内容紹介だけでは本書の魅力の一端も紹介できてないことに気づいた。タイトルの「ことば汁」から連想できるように、本書の凄みは詩人でもある著者のことばマニア的なこだわりの上に成り立っている。「ことば汁」というタイトルはそんな著者からの挑戦でもあるのだ。なんとも不敵でたのもしい限りではないか。
たまもの
小池昌代『たまもの』を読みながら、あ、ことばが楽になってきたなあ、と感じた。私は、それほどていねいに小池昌代を読んできているわけではないので印象批評になってしまうが、何かをことばで追い詰めていくという感じから、ことばをその場その場で動かして、それが動くがままにしている、という感じがする。この小説では。
昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)
<blockquote>
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、
<blockquote>
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。
<blockquote>
神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。
</blockquote>
ここは、散文というより、詩である。
ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。
こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
そして。
私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。
昔つきあったことのある男を思い出す部分。(62ページ)
<blockquote>
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。--「閑吟集」の世捨て人はそう言った。狂わずして、なんの人生か。とはいえ、あいつはくずだった。くずに狂った、わたしもくずだ。女というものは、過去なんか引きずらないものだと言うひとがいて、いや違う。わたしも女だが、厚手の絨毯のようなそれを、ずるずる引きずっている。執念深い。けれど最近、そういうものが、ようやくひとつひとつ、ぷつりぷつりと切れてきた。
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
「閑吟集」を引きながら、「狂う」ことについて思いめぐらしている。
「女というものは、過去なんか引きずらないものだ」という観念的なことばがある。「観念的」というのは、まあ、頭ではわからないことはないが、私の実感とは違うということである。
「厚手の絨毯のような」のような「過去」をもった個性的なことばがある。そうか、この小説の女は「過去を厚手の絨毯のようにずるずると引きずっている」と感じているのか。いつか「厚手の絨毯」を引きずったことを「肉体」が覚えていてい、それがことばになって動いているのか。私は厚手の絨毯を引きずったことはないが、「ずるずる」という重い感覚が「肉体」を刺戟してくる。わからないと言ってしまいたいが、この「ずるずる」が強烈である。「実感」として、わかってしまう。私の思い出ではないのに。
その、観念と個性(実感)のあいだで、うーんとうなっていると、改行して、
<blockquote>
さよなら、くず、さよなら、かこ。
</blockquote>
ぱっと、ことばが飛躍する。「いま」がぱっと過去を振り捨てる。「過去」が「かこ」とひらがなになって「意味」を捨て、音、音楽になった飛び散る。
「閑吟集」の「狂う」から「過去」へ、「過去」から「厚手の絨毯を引きずる」への動きには、なにか粘着力を感じさせる「接続」があるのだが、「ぷつりぷつりと切れてきた」から、この「さよなら、くず、……」のあいだには、「接続」ではなく「断絶」がある。いや、それはたしかにつづいているのだが、つづき方が「粘着力」とは別の力である。「接続」ということばをつかって「断絶」を言いなおすと、それまで書いてきたことを「踏み切り台」にして飛躍するということになる。「踏み切り台」は、それまでのことばと地続きである。けれど、踏み切り台を踏んでしまうと、体が宙に浮く。飛躍する。そういう感じの「断絶」がある。「かこ」というひらがな、音になったことばがそれを強調する。
で、この「断絶(飛躍)」が、「さよなら、くず、……」で終わらない。
<blockquote>
神輿はだんだん遠くなる。遠くなる。そしてだんだん透きとおる。どこまでいくのか、見届けようとして、眼をあけると、わたしはひとり。雨だった。雨の音は、遠いところをゆく、神輿の音に似ている。
</blockquote>
ここは、散文というより、詩である。
ことばが「過去」を振り捨てて、「いま」という時間の中で、「いま」そのものを耕している。楽しんでいる。感覚が解放され(敏感になり)、それまで見えなかった「いま」が、永遠になってあらわれている。
「永遠」と思わず書いてしまうのは、それが「いま」なのに、「過去/かこ」のようにも見えるからである。時間が「透きとお」って、「いま」「かこ」「みらい」がなくなるのかもしれない。「時間」を区切って見せる「観念(?)」が消えて、感覚が新しく生まれてくる。生まれて、動いていく感じ。
こういうことばの変化が、この小説には随所にある。
何かの具体的な、リアリティーのある描写が、ことばにすることで、別のことばを呼び寄せ観念的になる。「小説」から「随想(エッセイ)」かのようになる。そう思っていたら、それがぱっとはじけて「詩」になる。
ことばが「固定化」していない。一つの運動法則に従っていない。
これは、乱れというものかも知れないが、私は、この変化をとてもおもしろいと感じた。軽くていいなあ、と感じた。
そして。
私はここから飛躍して「感覚の意見」を書いてしまうのだが……。
あ、これが「いま」の小説のスタイルなのか、とも思った。私は小説は「芥川賞受賞作」くらいしか読まないが、最近の「芥川賞」の小説はへたくそな現代詩のまねごとのように見えて仕方がなかった。それは、そうか、いま小説は小池の書いているような詩を含んだ文体をめざしているのか、とようやくわかったような気持ちになった。
詩から出発しているだけに、小池の方が、そういう「文体」にははるかに長けている。なるほどなあ。こんなふうにして小池は詩をいかしているのか。
さて、次の作品では、この文体はどんな具合に変化するかな、--そういう期待をさせる小説である。
通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)
個々の詩のよさは、読みの側に詩嚢が育っていないと分らないものだ。逆に言えば、読み手の言葉を介した想像力が試されているようなものだ。もうひとつ、雑感。詩を書きとめる言葉の数は、散文と比べるとはるかに少ないから、詩はしばしば短時間で書く(考える)ことが可能である。短時間で書く(考える)というのは、追いつめられた状況下、あるいはこの本のタイトルにあるような通勤時間など。
とまあ、本書を読んで久しぶりに「詩について」あれこれ思考の回路を磨きなおしてみた。本書の惹句に次のようにある、「多くの人との乗り合わせながら、孤独で自由なひとりの人間に戻れるのが通勤電車。揺れに身を任せ、古今東西の名詞を読めば、日常の底に沈んでしまった詩情がしみじみとたちのぼる。生きることの深い疲労感を、やさしくすくいあげてくれる言葉の世界へ、自らも詩人である編者が誘う」と。
「朝の電車」「午後の電車」「夜の電車」別に名詞が編集されている。まどみちお、中原中也、谷川俊太郎、北原白秋、草野心平、室生犀星、宮澤賢治、萩原朔太郎などの名の知れた詩人の他にも、いい詩を書いた人たちが並んでる。
編者、小池昌代さんの「記憶」という詩もある。それはこんな詩だ、「オーバーをぬいで壁にかけた/十年以上も前に錦糸町で買ったものだ/わたしよりもさらに孤独に/さらに疲れ果てて/袖口には毛玉/すそにはほころび/知らなかった/ひとは/こんなふうに孤独を/こんあふうに年月を/脱ぐことがあるのか/朝/ひどい、急ぎ足で/駅へ向かうこのオーバーを見たことがある/おかえり/それにしても/かなしみのおかしな形状を/オーバーはいつ記憶したのか/わたし自身が気づくより前に」
とまあ、本書を読んで久しぶりに「詩について」あれこれ思考の回路を磨きなおしてみた。本書の惹句に次のようにある、「多くの人との乗り合わせながら、孤独で自由なひとりの人間に戻れるのが通勤電車。揺れに身を任せ、古今東西の名詞を読めば、日常の底に沈んでしまった詩情がしみじみとたちのぼる。生きることの深い疲労感を、やさしくすくいあげてくれる言葉の世界へ、自らも詩人である編者が誘う」と。
「朝の電車」「午後の電車」「夜の電車」別に名詞が編集されている。まどみちお、中原中也、谷川俊太郎、北原白秋、草野心平、室生犀星、宮澤賢治、萩原朔太郎などの名の知れた詩人の他にも、いい詩を書いた人たちが並んでる。
編者、小池昌代さんの「記憶」という詩もある。それはこんな詩だ、「オーバーをぬいで壁にかけた/十年以上も前に錦糸町で買ったものだ/わたしよりもさらに孤独に/さらに疲れ果てて/袖口には毛玉/すそにはほころび/知らなかった/ひとは/こんなふうに孤独を/こんあふうに年月を/脱ぐことがあるのか/朝/ひどい、急ぎ足で/駅へ向かうこのオーバーを見たことがある/おかえり/それにしても/かなしみのおかしな形状を/オーバーはいつ記憶したのか/わたし自身が気づくより前に」