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少しピンぼけ気味ですが発売記念価格であれば値段相応かと。
商品の説明では1.8インチの液晶モニターと記載されていましたが
実際は1.5インチでした。
※2014年12月現在は訂正されているようです。
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実際は1.5インチでした。
※2014年12月現在は訂正されているようです。
赤字怪談いるいる
「赤字怪談・いるいる」(1968年/昭和43年)自主映画 45分
製作・ひま人くらぶ 監督・内田健太郎、黒田三平 脚本・望田市郎、内田健太郎
撮影・佐々木利吉 音楽・八木正生 美術・宮沢計次 動画・牧野圭一
出演・神崎仁奈、関原とし子、石上三登志
平安時代の京の都。日没間近の空が真っ赤に染まっている。まるで血の色である。やがて夜が忍び寄るように静かに訪れた。天には巨大な月が煌々と昇る。羅城門の辺りを、馬を牽きながら一人の武士らしき男が通りかかる。馬上にはかぶり笠をした武家の女。突如、天から何者かが舞い降りてくる。たちまち月が隠れ、辺りは暗黒となる。馬のいななき、うめき声、刀が空を斬る鈍い音がした。雲が流れ再び月が辺りを照らすと、地面に倒れ伏した武士の姿があった。巨大な醜い腕が馬上の女を鷲掴みにする。女はそのまま空中に引っ張りあげられてしまった。天の巨大な月は動かない。ただ羅城門の朱塗りの円柱と倒れ伏した武士、一頭の残された馬の姿を照らすのみであった。地面には女のかぶり笠が風に吹かれて転がっている。月はより高く昇り、崩れ落ちた羅城門の屋根瓦を醜く曝け出すのであった…。
荒寺の様な屋敷には人影は無く、生活の気配すら無かった。棚の上には髑髏が置かれ、床には刀を握りしめたまま白骨と化した鎧武者が倒れ伏していた。暗黒の屋敷は魔物の棲家なのか。地下にある鉄の扉が不気味な音を立てて開くと、そこは辺り一面氷柱に覆われた銀世界だった。中央に巨大な白い石棺が置いてある。その隣には鎧兜が直立していた。やがて石棺の重い蓋がズルズルと動き出したかと思うと、長い爪を伸ばした青白い腕が這い出て来るのであった…。
ドスドスと大股に歩く慌ただしい足音がした。巨大な醜い相貌の男が女を担いでやって来たかと思うと、床に放り出して出ていった。女は先ほどの馬上の武家の女であった。ズシリズシリという異様な足音が近づいてくる。飛び起きた女は怯えながら壁伝いに後ずさりをしていく。ガラリと戸が開かれる。立っていたのは鎧兜の武者であった。背後の戸が音もなく閉まる。ゆっくりと女に近づいていく武者。その顔は蒼褪めている。黙って女を見詰める武者。女も武者を見詰め、立ち上がる。手を差し出す武者。女を抱き寄せる。女の長い髪をかき分けて、首筋を撫で始める武者。そして女の着物の襟元を肌蹴、口を開け、牙を見せ、女の首筋に齧り付いた。床に滴り零れ落ちる血汐…。
灯りひとつない屋敷の広い板の間に、血を啜られた武家の女は屍の様な変わり果てた姿でうずくまっていた。ふと見上げると鎧兜の武者が立っている。牙を見せながら微笑む武者。
女は立ち上がる。そして再び、武者に血を啜られた…床に滴り零れ落ちる血汐…。
…色彩を失った灰色の世界で、女は全裸にむかれ柱へ縛り付けられていた。女の目の前にはけらけらと嘲笑う女がしゃがみ込み、手にした弓矢で、縛られて自由の利かない裸の体をいたぶるのであった。さらに、いたぶる女は尚もけらけらと嘲笑い続け、女の足に巨大な石を括り付けて天井から吊し上げ、激しく弓矢で打ちすえるのであった。吊るされた女の顔が苦悶に歪むのを楽しそうに嘲笑い続ける女。吊るされた女の裸の体がくるくると回りだすと、いきなりその顔が髑髏と化した。いたぶる女は驚き恐れて絶叫する。床に倒れ込んだいたぶる女の体を、無数の手が伸びてきて弄ぶ。床に海老反りの形に縛られた全裸の女。鎧兜の武者。弓矢でいたぶる女。短刀を抜いた女が、白い女の顔をズブリと突き刺した。滴り零れ落ちる血汐…。…これらすべては、武家の女の魂が今わの際に見た幻なのであろうか…。
或る夜、ひとりの女が羅城門へやって来た。かぶり笠をしたその女の小脇には刀の柄が見え隠れした。女は門を開け、屋敷を忍び足で歩くと、地下へと通ずる扉を見つけた。地下洞の石段を下りていく女。暗闇の世界には巨大な蜘蛛の巣が怪しく光り、不気味な地下泉がブクブクと沸き立っているのだった。しゃれこうべの山を通り過ぎた女は、鉄の扉の前に辿り着くと、辺り一面氷柱の銀世界へと忍び込んだ。中央の巨大な白い石棺を見つけると、近づいて、手にした刀を置き、重い蓋をズルズルとこじ開けた。石棺の中には蒼褪めて長い爪を伸ばした白装束の者が寝息をたてて横たわっていた。棺の中は色とりどりの花々で埋め尽くされていた。女は刀を抜くと、横たわる白装束の胸元に突き立てて、刺し貫こうとした…が、いきなり現れた巨大な醜い相貌の男に、うしろから羽交い締めにされてしまうのであった…。
ズシリズシリと異様な足音が近づいて来る。音もなく戸が開き、音もなく戸が閉まる。幽閉された女のもとへやって来たのは、鎧兜の武者であった。女を見て牙をむく武者。屋敷の板敷の間で女は正座して微動だにしない。羽織りを頭巾の様にしており顔が見えない。目の前に近づいて来る武者の気配を捉えた女は立ち上がり、羽織りを脱いだ。女の顔一面に「南無阿弥陀仏」の経文があった。絶句して後ずさりする武者。女は更に帯を解き、全裸となる。
その体一面にもいたるところに経文が…。腰を抜かす武者。女は透かさず刀を手に取り武者に突進した。武者も刀を抜いて応戦。立ち回りの末、刀を落とす武者。女は武者を力の限り蹴り飛ばす。柱まで飛ばされる武者。刀を構え直した女は武者に体当たり。手応えがあった。よろめきながら後ずさりする武者。刀を離さない女は、そのまま武者に引きずられていく格好になる。どっと倒れる武者。女は漸く刀を離し、繁々と武者を見詰めた。武者の体に突き刺さった刀はびくともしなかった。やっとの思いで引き抜くと、青い鮮血がほとばしり出て壁を青く染め上げた。やがて武者の姿は白骨と化すのであった…。
巨大な醜い相貌の男が女を追い掛け回していた。男は僧兵の様な格好で、その体の首やら胸やら背中やらには、矢と刀が突き刺さっているのであった。二人は羅城門の門前をぐるぐると駆け巡った。疲れた男が腰を下ろして息をつくと、うしろから女が棍棒で殴りつける。また追い掛け合う二人。男の背中に突き刺さった刀を抜いた女は、その刀で男に体当たりした。しかし男はびくともしない。もう一度体当たりする女。だが男は平気だ。薄笑いを浮かべている男に更に体当たりする女。駄目だ効かない。女は棍棒を拾い上げ、男の向こう脛を思い切り殴りつけた。これには堪らず悶絶する男。門前での追い掛け合いが再び始まる。男の怪力で門前の壁に穴が開き、その衝撃のためか古びた門前が突如崩れ出し、屋根も壁もボロボロに崩壊する。門の裏に隠れていた女は、到頭、男に捕まってしまう。その場に押し倒され、組み敷かれてしまう女。馬乗りになった男は、女の着物を肌蹴ると、その乳房をまさぐるのであった。観念した女の眼は哀しそうだ。霧が流れ、烏が鳴く。何処からか聞こえる、ねんねんころりの子守唄。女の胸に頭をのせて、男は息をつくのであった…。
事を済ました男が門前に現れる。どうも足取りが怪しい。到頭、その場に膝をついてしまった。男の顔面がひび割れていく。そのまま後ろ向きに倒れ込むと、首が千切れ、頭が割れ、手の指はボロボロと崩れてしまい…男は土塊と化すのだった。その姿を黙って見つめている女であった。
日本の高度経済成長時代は8ミリフィルムや16ミリフィルムで作られた、商業映画とはまるでかけ離れた、所謂、自主映画の黎明期でもあった。昭和30年代の終わり頃から、昭和40年代の初め頃にかけて、詩人、画家、彫刻家などの芸術家グループやテレビのコマーシャルフィルムを製作する集団たちによって、数多くの傑作が生み出され、徐々に好評を博していったそれらの作品は、建てられて間もない新宿の紀伊國屋ホール等で上映されたりして、ますます注目を集め、人気を呼んでいった。記録映画で著名な東陽一監督や、日本映画界を代表する重鎮、今や長老的存在の大林宣彦監督らも、これらムーヴメントの中心的な担い手として活躍した。当時、テレビのコマーシャルフィルムを製作する仕事に就いていた大林監督が2年の歳月をかけた「EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ」(67)はアンダーグラウンド文化を支持する若者たちの反響も大きく、話題となった。
「赤字怪談・いるいる」という奇妙な題名を持つ、この自主映画作品も、昭和43年に製作されていることから、アングラ・ブーム真っ盛りの頃に上映、公開されたものと思われる。
製作に携わった、ひま人くらぶはテレビのコマーシャルフィルムを製作する集団らしく、監督以下スタッフは皆、その関係者の模様である。監督の内田健太郎氏(1938-1998? 大林宣彦監督と同世代)は、初期CM界の奇才、CM界の黒澤明、ユーモアとパロディの名手と賞賛された才人で、カンヌ国際広告映画祭国際広告賞、ACC賞など受賞多数である。代表作に三菱レイヨン、ペンタックス等のコマーシャルがある。動画で作られたペンタックスのコマーシャルで連呼される「望遠だよ、望遠だよ、ワイドだよ」のフレーズをご存知の方もいらっしゃると思う。昭和40年代半ば頃に作られた、これらコマーシャルで女性を起用したものに、三菱レイヨンのボンネル・サマーセーター、ボンネル・カジュアルやペンタックス、ブリジストン等があるのだが、登場する女性たちがことごとくグラマラスであり、ミニスカートで闊歩する姿を、胸を強調する下からの角度で撮影するという、現在の視点から見ても十分に刺激的でエロティックな仕上がりとなっていて驚かされるが、これは恐らく監督の嗜好なのではないだろうか。自主映画「赤字怪談・いるいる」も、まさしく怪奇とエロスに満ち満ちた奇想の一本なのである。
この映画が、どういった経緯で製作され、また、何処で公開上映されたものであるのか、そういった事柄は残念ながら何も分からない。インターネット全盛のこのご時世でも、この映画についての手掛かりは、ほとんど得られないと言って良いと思う。それくらいこの映画の背景は謎に満ちており、知る人も少なく、見る機会さえなく、幻と呼ぶに相応しいものだったのである。この映画の存在について初めて知ったのは、昭和55年(1980年)1月25日に、芳賀書店より発行された、季刊映画宝庫シリーズの第11号(新年号)「ドラキュラ雑学写真事典」に於いてであった。映画スターを丸ごと一冊に閉じ込めた様な、当時はおろか現在も世界で類を見ない俳優の写真集叢書シネアルバムで定評のある、芳賀書店が発行したこの吸血鬼映画特集の季刊本は、ジョージ・ハミルトン主演「ドラキュラ都へ行く」(79) やフランク・ランジェラ主演「ドラキュラ」(79)のヒットを受けて、当時の日本でも巻き起こっていたドラキュラブームの波にあやかったタイムリーなものであったが、ただ単にブームに乗っかった様な軽薄な書籍ではなく、当時の怪奇恐怖映画の愛好家たちからも絶賛される様な極めて質の高い、内容の伴った濃い一冊であった。なかでも平和孝氏の大労作「吸血鬼映画全作品フィルモグラフィ」は圧巻の内容の永久保存版であった。また、この本はフランスのヴァンパイア・エロスの巨匠ジャン・ローランの映画作品を初めて写真入りで我が国に紹介した本としても記憶しておいて良いと思う。
そんな当時としては画期的な本の後半に掲載されていた白黒のグラビア特集「DRACULA メイド・イン・ジャパン」に大林宣彦監督の自主映画「EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ」とともにグラビア写真入りで紹介されていたのが、この「赤字怪談・いるいる」なのであった。この映画を紹介した本を後にも先にも、見たことはない。
この映画には台詞が一切無い。雰囲気のある音楽、効果音、子守唄などが流れはするのだが、登場する人物たちには台詞が与えられておらず、無声映画の様な趣がある。また劇中において示されることはないが、鎧兜の武者が源義経、僧兵の恰好をした醜い相貌の男が武蔵坊弁慶という設定になっている。義経は生き血を吸う吸血鬼ドラキュラとして描かれ、弁慶はまるでフランケンシュタイン博士の人造人間の様な存在である。二人は主人と下僕の関係であり、弁慶は京の都で夜な夜な女をさらい、義経は生きるため快楽のため、ひたすら血を求めるのである。物語は至って単純で、この二人の人ならぬ魔物が凶行の末に、或る日突然現れた女によって退治されるという趣向である。その展開は、直線的に見えながらも、途中に様々なイメージカット、幻想的な風景を挿し挟みながら、非常にゆったりとしたテンポで進んでいく。闇の中で始まり、闇の中で終わりを迎えるようなドラマの構成を見ていると
時間の観念も空間の観念も意識されなくなるようで、延々と無数に並んでいる石仏や烏の羽ばたき、数知れぬ程の蝋燭のともしび、積み重なった墓場、しゃれこうべの山などのイメージショットがさらに拍車をかけ、要所要所で流れる子守唄が超現実的な次元へと観るものを誘うようだ。なかでも印象的なのは、突如として出現する、モノクロームの灰色の世界で繰り広げられる、女同士による拷問の場面である。画面が暗いうえ、登場する二人の女性の顔立ちが大変似ているので、もしかしたら、いたぶる女といたぶられる女は同一人物が演じているのかも知れない。二人が同時に画面に映ることがないことからも、その可能性が高いが、もし、そうだとすると、これは義経によって吸血された武家の女が一人で見ている幻覚ということにならないだろうか。つまりこれは生き血を吸われて悪に魅了されてしまった心と、それに抵抗している善なる心の対決を描いたものとして解釈され、犠牲者の心の葛藤を倒錯的なエロスの幻想で表現している点が極めて知性的で他に類を見ない、怪奇幻想映画には珍しいシーンだと言える。観るものを刺激するだけの単なる煽情的な場面ではないのである。そして幻想の最後に女は女の顔を短刀で突き刺すのだが、これは武家の女が結局は死を選び取ったということなのかも知れない。
この映画の見所は何といっても動きの多い立ち回りの場面、義経と謎の全身経文女の対決場面にある。現在の視点から見ても遜色ないどころか、余程しっかりと練られたコンテにもとづいて撮影されたと想像される優れたアクション・シーンとなっている。女の素性はまったく示されることはないが、犠牲になった武家の女の身内なのか、彼女の仇討ちに現れたのか、その隙の無い行動はヴァンパイア・ハンターそのものである。何よりも全裸の体に経文を描いた姿がショッキングであり、そのうえ刀を振り回して、義経を蹴り飛ばしたりする。
さらに、商業映画にない自主映画ならではの規制の緩さなのか、乳房どころか陰部の茂みも確認することが出来る。すべて自然の流れで撮影されており、奇を衒うものではない。
注目したいのは、吸血鬼映画になくてはならない吸血の場面である。この映画の公開当時は、ちょうど英国ハマー・フィルムの「帰ってきたドラキュラ」(68)が、日本で封切られたこともあり、その影響が大きいと思われる。同じ年の8月には松竹が「吸血鬼ゴケミドロ」を公開している。義経の吸血場面はハマー・フィルムでクリストファー・リーが演じたドラキュラの吸血場面を明らかに因襲したものであるが、実はそれよりも丁寧な描写が施されており、眼力で犠牲者を金縛りにするところはお約束であるが、そのあとの髪を掻き分けたり、首筋を優しく撫でたりする描写は、ハマー作品には見られない、独自のものであった。
他にはクライマックス・シーンでボロボロに崩壊する弁慶の描写にも、最後に白骨化する義経ともども、ハマー作品からの影響が感じられて面白いものであった。
後半に展開されるモンスター武蔵坊弁慶と女との対決場面は、迫力ある義経との戦いとは打って変わった、コミカルでユーモラスな仕上がりとなっている。羅城門の門前での追い掛け合いは、早回しを多用。文字通りのスラップスティックで、女が疲れて腰を下ろした弁慶のうしろへ回って頭をポカリと棍棒で叩いてみたり、脛(弁慶の泣き所)を打って逃げ回ったり、ドタバタの末には門前が派手に崩れ落ちて滅茶苦茶になってしまう。
だがその後に待っている強姦の場面は、奇妙な哀感に包まれており、怪物である弁慶に人間臭さが加わり、涅槃の雰囲気が色濃く漂う結末を迎えるのである。ボロボロに崩壊して土塊となった弁慶は、この世に何の未練も残すことなく成仏した様に見える。ここに至って思い当たるのは、経文の女は単なる化物退治にやって来た戦士などではなく、実は義経と弁慶の魂を解放するべく訪れた聖母の様な存在だったのではないかということである。彼女は呪いを解きに来たのである。二人の死骸を見詰める彼女の瞳は、無常観をたたえて厳しいが、その底には母なる優しさがある様にも感じるのである。劇中、たびたび流れる子守唄もその心の証しなのではなかったかと思われるのである。
出演者について触れておきたい。吸血鬼源義経を演じているのは、電通勤務のCMディレクターで映画評論家の石上三登志(1939-2012)である。この事実を知っている方は少ないかも知れない。上記の「ドラキュラ雑学写真事典」のなかで石上氏自身がこっそりとそのことに触れているのである。大林宣彦監督との交流でも知られており、生年も監督とひとつ違いであった。映画出演した大林監督作品に「HOUSE ハウス」(1977)「瞳の中の訪問者」(1977)「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986)(声の出演)「淀川長治物語・神戸篇サイナラ」(2000)「理由」(2004)がある。主な著書に「吸血鬼だらけの宇宙船-怪奇・SF映画論」(1977 奇想天外社)「地球のための紳士録」(1980 奇想天外社)「私の映画史-石上三登志映画論集成」(2012論創社)他多数。石上氏の演じた義経は、蒼白い顔に兜を目深に被り中々ダンディであった。全身経文の女を演じたのは神崎仁奈。昭和40年代に活躍した混血タレントで、監督の内田健太郎氏のペンタックスのCMなどに出演していた。「週刊プレイボーイ」のグラビアを飾ったこともある。
内田健太郎監督の他の作品にはSMポルノ人形劇ともいうべき「羅生門」と「三蔵法師」がある。ともに自主映画作品であるが製作年は不明である。「羅生門」はさらわれてきた女が荒れ寺で妖怪たちの視線のもと、延々と鞭打たれた挙句に悶絶するという物語。「三蔵法師」は永遠の命を得るために女の妖怪が三蔵法師を捕えて精力を吸い尽くすという物語。使用されている人形は局部や体毛などが非常にリアルに作られており、かなりエロティックだという評判である。「赤字怪談・いるいる」とともにDVD化されているが入手は困難な模様である。また、長編SFX人形劇映画「西遊記」(1988)もあり、これはメジャー公開された模様である。VHSのソフトが発売されている。なお、氏のCM作品を集大成したビデオに「特撮CMワンダーランド 内田健太郎おもしろCM大全集」(1985 ビクターエンタテインメント)がある。VHSは廃盤で入手困難。氏の鬼才振りが窺える優れた一品であり、正真正銘の才能の記録である。文化遺産と言っても過言ではない。デジタル化が待たれる。
最後にDVDの仕様について触れておく。メニュー画面にはチャプターしかなく、特典の類は一切ない。発売は2003年で今や過去の遺物となったジュエルケースにDVDが収められている。ジャケットは紙ペラ一枚きりで裏は白紙。解説書の類はなくジャケット裏に解説が書かれている。チャプターには第一章から第五章まで区分けされて記されているが、本来このような章分けが存在していたとは思えず、DVD発売に際しての「後付」である様に思われる。大体、ノーカット版、永久保存版を謳いながらタイトルクレジットが現れずに、いきなり物語が始まるのである。初めに現れる「赤字怪談・いるいる」の題も「後付」であり一体何故この様な加工処理が行われたのか分からない。そもそもこのソフトを企画・製作・発売している会社自体が怪しげであり、Jyomonというレーベルも縄文文化を現代に受け継ぐという趣旨のもとに結成された新興宗教の団体の様な感じであり、正体不明である。収録時間も43分となっているが、正味は41分であり。最初、DVDを挿入して画面に現れる地球図がぐるぐるぐるぐると何と1分半以上も回り続けたりするのである。さすがにこれには閉口する。サブリミナル効果を狙った何かなのか?無視して早送りする事をお勧めする。ちなみに「ドラキュラ雑学写真事典」に記されている上映タイムは45分であり、全裸の立ち回り場面も8分30秒に及ぶと書かれている。それが事実ならノーカットは偽りである。
最後の最後になってしまったが、購入者にとって一番大事なことに触れておきたい。画質は極めて悪い。VHS素材をそのままDVDにダビングしただけである。一昔前のVHSの裏ビデオでも観ている様な錯覚を起こしてしまう。一体全体、どこでどう調達してきたビデオテープなのであろうか…。作品のみならずDVDソフトまでが謎を呼ぶ代物であるが、和製ジャン・ローランとも言うべき怪奇とエロスの幻の吸血鬼映画として記憶に留めておいて良い作品である。画質についてはジャケット写真の色調が参考になるだろう。仕様はどうあれ、こうして見れるのは奇跡的なことである。どうしても見たいという好事家だけにお勧めしておく。
製作・ひま人くらぶ 監督・内田健太郎、黒田三平 脚本・望田市郎、内田健太郎
撮影・佐々木利吉 音楽・八木正生 美術・宮沢計次 動画・牧野圭一
出演・神崎仁奈、関原とし子、石上三登志
平安時代の京の都。日没間近の空が真っ赤に染まっている。まるで血の色である。やがて夜が忍び寄るように静かに訪れた。天には巨大な月が煌々と昇る。羅城門の辺りを、馬を牽きながら一人の武士らしき男が通りかかる。馬上にはかぶり笠をした武家の女。突如、天から何者かが舞い降りてくる。たちまち月が隠れ、辺りは暗黒となる。馬のいななき、うめき声、刀が空を斬る鈍い音がした。雲が流れ再び月が辺りを照らすと、地面に倒れ伏した武士の姿があった。巨大な醜い腕が馬上の女を鷲掴みにする。女はそのまま空中に引っ張りあげられてしまった。天の巨大な月は動かない。ただ羅城門の朱塗りの円柱と倒れ伏した武士、一頭の残された馬の姿を照らすのみであった。地面には女のかぶり笠が風に吹かれて転がっている。月はより高く昇り、崩れ落ちた羅城門の屋根瓦を醜く曝け出すのであった…。
荒寺の様な屋敷には人影は無く、生活の気配すら無かった。棚の上には髑髏が置かれ、床には刀を握りしめたまま白骨と化した鎧武者が倒れ伏していた。暗黒の屋敷は魔物の棲家なのか。地下にある鉄の扉が不気味な音を立てて開くと、そこは辺り一面氷柱に覆われた銀世界だった。中央に巨大な白い石棺が置いてある。その隣には鎧兜が直立していた。やがて石棺の重い蓋がズルズルと動き出したかと思うと、長い爪を伸ばした青白い腕が這い出て来るのであった…。
ドスドスと大股に歩く慌ただしい足音がした。巨大な醜い相貌の男が女を担いでやって来たかと思うと、床に放り出して出ていった。女は先ほどの馬上の武家の女であった。ズシリズシリという異様な足音が近づいてくる。飛び起きた女は怯えながら壁伝いに後ずさりをしていく。ガラリと戸が開かれる。立っていたのは鎧兜の武者であった。背後の戸が音もなく閉まる。ゆっくりと女に近づいていく武者。その顔は蒼褪めている。黙って女を見詰める武者。女も武者を見詰め、立ち上がる。手を差し出す武者。女を抱き寄せる。女の長い髪をかき分けて、首筋を撫で始める武者。そして女の着物の襟元を肌蹴、口を開け、牙を見せ、女の首筋に齧り付いた。床に滴り零れ落ちる血汐…。
灯りひとつない屋敷の広い板の間に、血を啜られた武家の女は屍の様な変わり果てた姿でうずくまっていた。ふと見上げると鎧兜の武者が立っている。牙を見せながら微笑む武者。
女は立ち上がる。そして再び、武者に血を啜られた…床に滴り零れ落ちる血汐…。
…色彩を失った灰色の世界で、女は全裸にむかれ柱へ縛り付けられていた。女の目の前にはけらけらと嘲笑う女がしゃがみ込み、手にした弓矢で、縛られて自由の利かない裸の体をいたぶるのであった。さらに、いたぶる女は尚もけらけらと嘲笑い続け、女の足に巨大な石を括り付けて天井から吊し上げ、激しく弓矢で打ちすえるのであった。吊るされた女の顔が苦悶に歪むのを楽しそうに嘲笑い続ける女。吊るされた女の裸の体がくるくると回りだすと、いきなりその顔が髑髏と化した。いたぶる女は驚き恐れて絶叫する。床に倒れ込んだいたぶる女の体を、無数の手が伸びてきて弄ぶ。床に海老反りの形に縛られた全裸の女。鎧兜の武者。弓矢でいたぶる女。短刀を抜いた女が、白い女の顔をズブリと突き刺した。滴り零れ落ちる血汐…。…これらすべては、武家の女の魂が今わの際に見た幻なのであろうか…。
或る夜、ひとりの女が羅城門へやって来た。かぶり笠をしたその女の小脇には刀の柄が見え隠れした。女は門を開け、屋敷を忍び足で歩くと、地下へと通ずる扉を見つけた。地下洞の石段を下りていく女。暗闇の世界には巨大な蜘蛛の巣が怪しく光り、不気味な地下泉がブクブクと沸き立っているのだった。しゃれこうべの山を通り過ぎた女は、鉄の扉の前に辿り着くと、辺り一面氷柱の銀世界へと忍び込んだ。中央の巨大な白い石棺を見つけると、近づいて、手にした刀を置き、重い蓋をズルズルとこじ開けた。石棺の中には蒼褪めて長い爪を伸ばした白装束の者が寝息をたてて横たわっていた。棺の中は色とりどりの花々で埋め尽くされていた。女は刀を抜くと、横たわる白装束の胸元に突き立てて、刺し貫こうとした…が、いきなり現れた巨大な醜い相貌の男に、うしろから羽交い締めにされてしまうのであった…。
ズシリズシリと異様な足音が近づいて来る。音もなく戸が開き、音もなく戸が閉まる。幽閉された女のもとへやって来たのは、鎧兜の武者であった。女を見て牙をむく武者。屋敷の板敷の間で女は正座して微動だにしない。羽織りを頭巾の様にしており顔が見えない。目の前に近づいて来る武者の気配を捉えた女は立ち上がり、羽織りを脱いだ。女の顔一面に「南無阿弥陀仏」の経文があった。絶句して後ずさりする武者。女は更に帯を解き、全裸となる。
その体一面にもいたるところに経文が…。腰を抜かす武者。女は透かさず刀を手に取り武者に突進した。武者も刀を抜いて応戦。立ち回りの末、刀を落とす武者。女は武者を力の限り蹴り飛ばす。柱まで飛ばされる武者。刀を構え直した女は武者に体当たり。手応えがあった。よろめきながら後ずさりする武者。刀を離さない女は、そのまま武者に引きずられていく格好になる。どっと倒れる武者。女は漸く刀を離し、繁々と武者を見詰めた。武者の体に突き刺さった刀はびくともしなかった。やっとの思いで引き抜くと、青い鮮血がほとばしり出て壁を青く染め上げた。やがて武者の姿は白骨と化すのであった…。
巨大な醜い相貌の男が女を追い掛け回していた。男は僧兵の様な格好で、その体の首やら胸やら背中やらには、矢と刀が突き刺さっているのであった。二人は羅城門の門前をぐるぐると駆け巡った。疲れた男が腰を下ろして息をつくと、うしろから女が棍棒で殴りつける。また追い掛け合う二人。男の背中に突き刺さった刀を抜いた女は、その刀で男に体当たりした。しかし男はびくともしない。もう一度体当たりする女。だが男は平気だ。薄笑いを浮かべている男に更に体当たりする女。駄目だ効かない。女は棍棒を拾い上げ、男の向こう脛を思い切り殴りつけた。これには堪らず悶絶する男。門前での追い掛け合いが再び始まる。男の怪力で門前の壁に穴が開き、その衝撃のためか古びた門前が突如崩れ出し、屋根も壁もボロボロに崩壊する。門の裏に隠れていた女は、到頭、男に捕まってしまう。その場に押し倒され、組み敷かれてしまう女。馬乗りになった男は、女の着物を肌蹴ると、その乳房をまさぐるのであった。観念した女の眼は哀しそうだ。霧が流れ、烏が鳴く。何処からか聞こえる、ねんねんころりの子守唄。女の胸に頭をのせて、男は息をつくのであった…。
事を済ました男が門前に現れる。どうも足取りが怪しい。到頭、その場に膝をついてしまった。男の顔面がひび割れていく。そのまま後ろ向きに倒れ込むと、首が千切れ、頭が割れ、手の指はボロボロと崩れてしまい…男は土塊と化すのだった。その姿を黙って見つめている女であった。
日本の高度経済成長時代は8ミリフィルムや16ミリフィルムで作られた、商業映画とはまるでかけ離れた、所謂、自主映画の黎明期でもあった。昭和30年代の終わり頃から、昭和40年代の初め頃にかけて、詩人、画家、彫刻家などの芸術家グループやテレビのコマーシャルフィルムを製作する集団たちによって、数多くの傑作が生み出され、徐々に好評を博していったそれらの作品は、建てられて間もない新宿の紀伊國屋ホール等で上映されたりして、ますます注目を集め、人気を呼んでいった。記録映画で著名な東陽一監督や、日本映画界を代表する重鎮、今や長老的存在の大林宣彦監督らも、これらムーヴメントの中心的な担い手として活躍した。当時、テレビのコマーシャルフィルムを製作する仕事に就いていた大林監督が2年の歳月をかけた「EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ」(67)はアンダーグラウンド文化を支持する若者たちの反響も大きく、話題となった。
「赤字怪談・いるいる」という奇妙な題名を持つ、この自主映画作品も、昭和43年に製作されていることから、アングラ・ブーム真っ盛りの頃に上映、公開されたものと思われる。
製作に携わった、ひま人くらぶはテレビのコマーシャルフィルムを製作する集団らしく、監督以下スタッフは皆、その関係者の模様である。監督の内田健太郎氏(1938-1998? 大林宣彦監督と同世代)は、初期CM界の奇才、CM界の黒澤明、ユーモアとパロディの名手と賞賛された才人で、カンヌ国際広告映画祭国際広告賞、ACC賞など受賞多数である。代表作に三菱レイヨン、ペンタックス等のコマーシャルがある。動画で作られたペンタックスのコマーシャルで連呼される「望遠だよ、望遠だよ、ワイドだよ」のフレーズをご存知の方もいらっしゃると思う。昭和40年代半ば頃に作られた、これらコマーシャルで女性を起用したものに、三菱レイヨンのボンネル・サマーセーター、ボンネル・カジュアルやペンタックス、ブリジストン等があるのだが、登場する女性たちがことごとくグラマラスであり、ミニスカートで闊歩する姿を、胸を強調する下からの角度で撮影するという、現在の視点から見ても十分に刺激的でエロティックな仕上がりとなっていて驚かされるが、これは恐らく監督の嗜好なのではないだろうか。自主映画「赤字怪談・いるいる」も、まさしく怪奇とエロスに満ち満ちた奇想の一本なのである。
この映画が、どういった経緯で製作され、また、何処で公開上映されたものであるのか、そういった事柄は残念ながら何も分からない。インターネット全盛のこのご時世でも、この映画についての手掛かりは、ほとんど得られないと言って良いと思う。それくらいこの映画の背景は謎に満ちており、知る人も少なく、見る機会さえなく、幻と呼ぶに相応しいものだったのである。この映画の存在について初めて知ったのは、昭和55年(1980年)1月25日に、芳賀書店より発行された、季刊映画宝庫シリーズの第11号(新年号)「ドラキュラ雑学写真事典」に於いてであった。映画スターを丸ごと一冊に閉じ込めた様な、当時はおろか現在も世界で類を見ない俳優の写真集叢書シネアルバムで定評のある、芳賀書店が発行したこの吸血鬼映画特集の季刊本は、ジョージ・ハミルトン主演「ドラキュラ都へ行く」(79) やフランク・ランジェラ主演「ドラキュラ」(79)のヒットを受けて、当時の日本でも巻き起こっていたドラキュラブームの波にあやかったタイムリーなものであったが、ただ単にブームに乗っかった様な軽薄な書籍ではなく、当時の怪奇恐怖映画の愛好家たちからも絶賛される様な極めて質の高い、内容の伴った濃い一冊であった。なかでも平和孝氏の大労作「吸血鬼映画全作品フィルモグラフィ」は圧巻の内容の永久保存版であった。また、この本はフランスのヴァンパイア・エロスの巨匠ジャン・ローランの映画作品を初めて写真入りで我が国に紹介した本としても記憶しておいて良いと思う。
そんな当時としては画期的な本の後半に掲載されていた白黒のグラビア特集「DRACULA メイド・イン・ジャパン」に大林宣彦監督の自主映画「EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ」とともにグラビア写真入りで紹介されていたのが、この「赤字怪談・いるいる」なのであった。この映画を紹介した本を後にも先にも、見たことはない。
この映画には台詞が一切無い。雰囲気のある音楽、効果音、子守唄などが流れはするのだが、登場する人物たちには台詞が与えられておらず、無声映画の様な趣がある。また劇中において示されることはないが、鎧兜の武者が源義経、僧兵の恰好をした醜い相貌の男が武蔵坊弁慶という設定になっている。義経は生き血を吸う吸血鬼ドラキュラとして描かれ、弁慶はまるでフランケンシュタイン博士の人造人間の様な存在である。二人は主人と下僕の関係であり、弁慶は京の都で夜な夜な女をさらい、義経は生きるため快楽のため、ひたすら血を求めるのである。物語は至って単純で、この二人の人ならぬ魔物が凶行の末に、或る日突然現れた女によって退治されるという趣向である。その展開は、直線的に見えながらも、途中に様々なイメージカット、幻想的な風景を挿し挟みながら、非常にゆったりとしたテンポで進んでいく。闇の中で始まり、闇の中で終わりを迎えるようなドラマの構成を見ていると
時間の観念も空間の観念も意識されなくなるようで、延々と無数に並んでいる石仏や烏の羽ばたき、数知れぬ程の蝋燭のともしび、積み重なった墓場、しゃれこうべの山などのイメージショットがさらに拍車をかけ、要所要所で流れる子守唄が超現実的な次元へと観るものを誘うようだ。なかでも印象的なのは、突如として出現する、モノクロームの灰色の世界で繰り広げられる、女同士による拷問の場面である。画面が暗いうえ、登場する二人の女性の顔立ちが大変似ているので、もしかしたら、いたぶる女といたぶられる女は同一人物が演じているのかも知れない。二人が同時に画面に映ることがないことからも、その可能性が高いが、もし、そうだとすると、これは義経によって吸血された武家の女が一人で見ている幻覚ということにならないだろうか。つまりこれは生き血を吸われて悪に魅了されてしまった心と、それに抵抗している善なる心の対決を描いたものとして解釈され、犠牲者の心の葛藤を倒錯的なエロスの幻想で表現している点が極めて知性的で他に類を見ない、怪奇幻想映画には珍しいシーンだと言える。観るものを刺激するだけの単なる煽情的な場面ではないのである。そして幻想の最後に女は女の顔を短刀で突き刺すのだが、これは武家の女が結局は死を選び取ったということなのかも知れない。
この映画の見所は何といっても動きの多い立ち回りの場面、義経と謎の全身経文女の対決場面にある。現在の視点から見ても遜色ないどころか、余程しっかりと練られたコンテにもとづいて撮影されたと想像される優れたアクション・シーンとなっている。女の素性はまったく示されることはないが、犠牲になった武家の女の身内なのか、彼女の仇討ちに現れたのか、その隙の無い行動はヴァンパイア・ハンターそのものである。何よりも全裸の体に経文を描いた姿がショッキングであり、そのうえ刀を振り回して、義経を蹴り飛ばしたりする。
さらに、商業映画にない自主映画ならではの規制の緩さなのか、乳房どころか陰部の茂みも確認することが出来る。すべて自然の流れで撮影されており、奇を衒うものではない。
注目したいのは、吸血鬼映画になくてはならない吸血の場面である。この映画の公開当時は、ちょうど英国ハマー・フィルムの「帰ってきたドラキュラ」(68)が、日本で封切られたこともあり、その影響が大きいと思われる。同じ年の8月には松竹が「吸血鬼ゴケミドロ」を公開している。義経の吸血場面はハマー・フィルムでクリストファー・リーが演じたドラキュラの吸血場面を明らかに因襲したものであるが、実はそれよりも丁寧な描写が施されており、眼力で犠牲者を金縛りにするところはお約束であるが、そのあとの髪を掻き分けたり、首筋を優しく撫でたりする描写は、ハマー作品には見られない、独自のものであった。
他にはクライマックス・シーンでボロボロに崩壊する弁慶の描写にも、最後に白骨化する義経ともども、ハマー作品からの影響が感じられて面白いものであった。
後半に展開されるモンスター武蔵坊弁慶と女との対決場面は、迫力ある義経との戦いとは打って変わった、コミカルでユーモラスな仕上がりとなっている。羅城門の門前での追い掛け合いは、早回しを多用。文字通りのスラップスティックで、女が疲れて腰を下ろした弁慶のうしろへ回って頭をポカリと棍棒で叩いてみたり、脛(弁慶の泣き所)を打って逃げ回ったり、ドタバタの末には門前が派手に崩れ落ちて滅茶苦茶になってしまう。
だがその後に待っている強姦の場面は、奇妙な哀感に包まれており、怪物である弁慶に人間臭さが加わり、涅槃の雰囲気が色濃く漂う結末を迎えるのである。ボロボロに崩壊して土塊となった弁慶は、この世に何の未練も残すことなく成仏した様に見える。ここに至って思い当たるのは、経文の女は単なる化物退治にやって来た戦士などではなく、実は義経と弁慶の魂を解放するべく訪れた聖母の様な存在だったのではないかということである。彼女は呪いを解きに来たのである。二人の死骸を見詰める彼女の瞳は、無常観をたたえて厳しいが、その底には母なる優しさがある様にも感じるのである。劇中、たびたび流れる子守唄もその心の証しなのではなかったかと思われるのである。
出演者について触れておきたい。吸血鬼源義経を演じているのは、電通勤務のCMディレクターで映画評論家の石上三登志(1939-2012)である。この事実を知っている方は少ないかも知れない。上記の「ドラキュラ雑学写真事典」のなかで石上氏自身がこっそりとそのことに触れているのである。大林宣彦監督との交流でも知られており、生年も監督とひとつ違いであった。映画出演した大林監督作品に「HOUSE ハウス」(1977)「瞳の中の訪問者」(1977)「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986)(声の出演)「淀川長治物語・神戸篇サイナラ」(2000)「理由」(2004)がある。主な著書に「吸血鬼だらけの宇宙船-怪奇・SF映画論」(1977 奇想天外社)「地球のための紳士録」(1980 奇想天外社)「私の映画史-石上三登志映画論集成」(2012論創社)他多数。石上氏の演じた義経は、蒼白い顔に兜を目深に被り中々ダンディであった。全身経文の女を演じたのは神崎仁奈。昭和40年代に活躍した混血タレントで、監督の内田健太郎氏のペンタックスのCMなどに出演していた。「週刊プレイボーイ」のグラビアを飾ったこともある。
内田健太郎監督の他の作品にはSMポルノ人形劇ともいうべき「羅生門」と「三蔵法師」がある。ともに自主映画作品であるが製作年は不明である。「羅生門」はさらわれてきた女が荒れ寺で妖怪たちの視線のもと、延々と鞭打たれた挙句に悶絶するという物語。「三蔵法師」は永遠の命を得るために女の妖怪が三蔵法師を捕えて精力を吸い尽くすという物語。使用されている人形は局部や体毛などが非常にリアルに作られており、かなりエロティックだという評判である。「赤字怪談・いるいる」とともにDVD化されているが入手は困難な模様である。また、長編SFX人形劇映画「西遊記」(1988)もあり、これはメジャー公開された模様である。VHSのソフトが発売されている。なお、氏のCM作品を集大成したビデオに「特撮CMワンダーランド 内田健太郎おもしろCM大全集」(1985 ビクターエンタテインメント)がある。VHSは廃盤で入手困難。氏の鬼才振りが窺える優れた一品であり、正真正銘の才能の記録である。文化遺産と言っても過言ではない。デジタル化が待たれる。
最後にDVDの仕様について触れておく。メニュー画面にはチャプターしかなく、特典の類は一切ない。発売は2003年で今や過去の遺物となったジュエルケースにDVDが収められている。ジャケットは紙ペラ一枚きりで裏は白紙。解説書の類はなくジャケット裏に解説が書かれている。チャプターには第一章から第五章まで区分けされて記されているが、本来このような章分けが存在していたとは思えず、DVD発売に際しての「後付」である様に思われる。大体、ノーカット版、永久保存版を謳いながらタイトルクレジットが現れずに、いきなり物語が始まるのである。初めに現れる「赤字怪談・いるいる」の題も「後付」であり一体何故この様な加工処理が行われたのか分からない。そもそもこのソフトを企画・製作・発売している会社自体が怪しげであり、Jyomonというレーベルも縄文文化を現代に受け継ぐという趣旨のもとに結成された新興宗教の団体の様な感じであり、正体不明である。収録時間も43分となっているが、正味は41分であり。最初、DVDを挿入して画面に現れる地球図がぐるぐるぐるぐると何と1分半以上も回り続けたりするのである。さすがにこれには閉口する。サブリミナル効果を狙った何かなのか?無視して早送りする事をお勧めする。ちなみに「ドラキュラ雑学写真事典」に記されている上映タイムは45分であり、全裸の立ち回り場面も8分30秒に及ぶと書かれている。それが事実ならノーカットは偽りである。
最後の最後になってしまったが、購入者にとって一番大事なことに触れておきたい。画質は極めて悪い。VHS素材をそのままDVDにダビングしただけである。一昔前のVHSの裏ビデオでも観ている様な錯覚を起こしてしまう。一体全体、どこでどう調達してきたビデオテープなのであろうか…。作品のみならずDVDソフトまでが謎を呼ぶ代物であるが、和製ジャン・ローランとも言うべき怪奇とエロスの幻の吸血鬼映画として記憶に留めておいて良い作品である。画質についてはジャケット写真の色調が参考になるだろう。仕様はどうあれ、こうして見れるのは奇跡的なことである。どうしても見たいという好事家だけにお勧めしておく。
赤字社員だらけでも営業利益20%をたたき出した社長の経営ノート
「赤字社員」表紙にある言葉としてはかなり衝撃的な単語ではあるが、その意味を読めば
すぐに納得できる。
逆に適切な比喩であることが理解できれば、著者の勇気と熱い気持ちが伝わりました。
こういうリーダーシップや経営ノウハウ本は何冊も読みました。
しかし、この本は先ずわかりやすいこと。
何より実践的な内容が多く、既存のスタッフで利益を上げる仕組みが心地よい流れで書かれている。
きっと、本当に著者が実践された内容であることを感じる。
会社を想う全ての経営者なら必ず感じる社員との温度差、意識の違いから発生するネガティブな結果。
その改善はどうすればいいのか。
モチベーションや意識改革では埋めることの出来ない目に見えない溝をどう埋めるか。
経営者なら一度は感じる基本の基本をどう変えるかを再認識できる一冊。
内容が、人材育成、営業の戦術、売り上げと経営まで幅広く、経営者だけではなく
社員にも読んでもらうことができれば経営者の想いが伝わる教科書になり得ると思う。
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ミラクル家計簿2
今まで使っていた家計簿ソフトは、どの商品がどれに分類されるのか分かりませんでした。
しかし、このソフトは分類を自動的にやってくれるので、とっても簡単です♪
しかし、全ての商品名が登録されていないので、そのまま入力しても分類してくれない場合があります。
おおまかな名前を入力すれば、出てくるのかな・・・。
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