塩壷の匙 (新潮文庫)
読んでみると、嫌な経験を見つめ、それをまとめて語りだすことに必要な心の強さをひしひしと感じ取れる文章だった。
べたべたした人間のみにくさをしっかり表現すると同時に、すごく充実して明るい世界の複数面を表すこともできているように思える。
人間関係でいやなことがあっても、風景とかはなおさら綺麗に見えることがある、という経験をした人はいるのではなかろうか。
すごくネガティブになる人間は、すごくポジティブな気持ちも抱けるのではないか。
そうしたところから、文章を具体的で実感のある的確なものにしようという意志が現れる。そこに、強さが宿るのだろう。
べたべたした人間のみにくさをしっかり表現すると同時に、すごく充実して明るい世界の複数面を表すこともできているように思える。
人間関係でいやなことがあっても、風景とかはなおさら綺麗に見えることがある、という経験をした人はいるのではなかろうか。
すごくネガティブになる人間は、すごくポジティブな気持ちも抱けるのではないか。
そうしたところから、文章を具体的で実感のある的確なものにしようという意志が現れる。そこに、強さが宿るのだろう。
赤目四十八瀧心中未遂
どこにいってもよそ者だと感じてしまうが故、中途半端に適応するより、徹底して不適応者となることを選ぶ。作者のスタート地点は、強烈な「否定」の感情である。それをどこまでもひとりでやり遂げようとする。その姿勢にまず惹きつけられた。
浮浪者寸前まで自らを突き落とし、社会の底辺に蠢く人々の怨念を文学にまで昇華させる。言葉を生むということの過酷さを身を持って示し、その言葉は人を感動させ同時に叩きのめす。
道徳や正義というもののをあっけなく一刀両断し、 表層的な楽観主義を拒絶し、徹底的に絶望することでしか掴み得ない僅かな救いを這いずりながら探ろうとする。
生きるということに対しこれほどまでに真摯になってしまうと、その先にあるのはこのような苦悩であり、 そうであるからこそ、その傷跡である言葉は、誰の言葉も拒絶する者の心に届く力を持つ。
文庫表紙となっている蓮の花は、泥の中でこそ咲くことができる。
作者もまた、泥にまみれることでしか生きられぬ業を背負うことで、類稀なる美を垣間見させてくれる。
書くということの悪を自覚した上で、書くことの本質を突き付けてくる。
最後まで陰鬱な暗雲を感じさせるが、その根底に流れるものは、仏教的無常観であり、宗教的救いを求めてうろたえる一匹の虫けらであることを自覚した男のしぶとさである。
生きることにも死ぬことにも意味も救いもない、だからこそ書かざるを得ない、痛々しくも生々しいリアリティを感じる。
浮浪者寸前まで自らを突き落とし、社会の底辺に蠢く人々の怨念を文学にまで昇華させる。言葉を生むということの過酷さを身を持って示し、その言葉は人を感動させ同時に叩きのめす。
道徳や正義というもののをあっけなく一刀両断し、 表層的な楽観主義を拒絶し、徹底的に絶望することでしか掴み得ない僅かな救いを這いずりながら探ろうとする。
生きるということに対しこれほどまでに真摯になってしまうと、その先にあるのはこのような苦悩であり、 そうであるからこそ、その傷跡である言葉は、誰の言葉も拒絶する者の心に届く力を持つ。
文庫表紙となっている蓮の花は、泥の中でこそ咲くことができる。
作者もまた、泥にまみれることでしか生きられぬ業を背負うことで、類稀なる美を垣間見させてくれる。
書くということの悪を自覚した上で、書くことの本質を突き付けてくる。
最後まで陰鬱な暗雲を感じさせるが、その根底に流れるものは、仏教的無常観であり、宗教的救いを求めてうろたえる一匹の虫けらであることを自覚した男のしぶとさである。
生きることにも死ぬことにも意味も救いもない、だからこそ書かざるを得ない、痛々しくも生々しいリアリティを感じる。
赤目四十八瀧心中未遂 [DVD]
ヤクザ、半島出身者、行き場を失ったインテリ、泥水を啜って生きる娼婦上がり、社会の底辺に生きる人を描いて、明るさが見えない話。きっと、今も尼崎でなくとも、関西の何処かに在りそうに思える、普通の人の経験しない世界が、妙に現実味を感じさせる。演出の力なのか、演技力なのか分からないが、心にずんと来る作品だ。
車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)
私小説家車谷長吉氏の人生相談(?)回答集である。
これは相(あい)談(だん)じる、という意味での相談では、ないと思う。
あとがきにて万丈目学氏が「今日も殺してはるなー」と書いておられるが、まったくその通りで、
相談や説教の類というよりは、淡々と宿命や真理について語るという態の、諦観教育、または車谷流修身教科書といった感が強い。
それもとんでもなく現代の読者に厳しく、教え諭すというよりは相談者の普段の人生に対する態度、つまり生活態度に対して、ほのかな軽蔑をすら感じさせる淡々とした語調で
語られるのであるから、教科書などといった優しげなニュアンスの、読めばわかる、話せばわかるヒューマンな教師ではなく、
谷底に落としてこそ教育と言わんばかりの超スパルタ教師の風合いが強い。
本書より抜粋
「私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。
この世の苦しみを知ったところから真の人生は始まるのです。」
それを言ったらおしまいよ、を車谷氏は最初の相談からぶつけてくる。
それを言ったらおしまいよ、からしか、氏の世界観は始まらないし、その残酷さ、真理性が我々読者には小気味よく感じられるのだろう。
それを言ったらおしまいよ、が我々には足りな過ぎるのだ。
建て前と社交辞令を極度に使用しすぎる結果、対世間の為の言葉遣いが対人生の言葉遣いに、いつの間にかすりかわってしまっているのだ。
人の一生は優しくも甘くもないのだから、当然それに対する言葉遣いも厳しく辛いものでなければ太刀打ちなどできはしないのに。
自分を十分に救ってくれる何者か、もしくは機会が存在するのではないか、そういう願望が我々にはありすぎるのだ。
ゆえに、我々にとって対極に位置する車谷氏の言葉は、臭く、濃く、あまりに鋭く感じられてしまう。
その意味で本書は我々のひ弱さ、諦観の不十分さを測るリトマス試験紙である。
読書感想は自分を映す鏡であるが、本書は特にその趣が強い。
ただ姿を反射する鏡である以上に、「見ろ!」と強引に、しかし淡々と接近してくる不気味な鏡である。
氏の文章の圧迫的な威力についてばかり語ってしまったが、見ようによっては本書は同時に娯楽性も高いのだ。
厳しすぎて、また真理を率直に語り過ぎていて、度が過ぎる故に笑ってしまう。真面目が過ぎるがゆえのユーモアがそこにはある。
「殺してはるなー」どころか「殺しすぎだろ!(笑)」と突っ込まずにはおれなくなるのだが、そんな反応をしてしまうのも私が、車谷氏が言うような「覚悟の足りない人」だからなのだろう。
車谷氏の諦観の域にまで達するのは一般人には到底高すぎる要求であるし、達したいとも思わないのだが、そのうわずみ、もしくは風味だけでもこちとらに摂取しなければ、
自分はただただ愚痴愚痴と嘆くだけのひ弱な人間のまま終わってしまうのではないか、という危機感が、本書を鑑賞中に煽られて私はしようがなかった。
笑ってしまうのだが笑ってばかりもいられないのだった。
この本を笑わずに読むことができる日がいつか来たならば、その時が、私が、生きるのに必要な諦観を十分に体得できた時なのかもしれない。
これは相(あい)談(だん)じる、という意味での相談では、ないと思う。
あとがきにて万丈目学氏が「今日も殺してはるなー」と書いておられるが、まったくその通りで、
相談や説教の類というよりは、淡々と宿命や真理について語るという態の、諦観教育、または車谷流修身教科書といった感が強い。
それもとんでもなく現代の読者に厳しく、教え諭すというよりは相談者の普段の人生に対する態度、つまり生活態度に対して、ほのかな軽蔑をすら感じさせる淡々とした語調で
語られるのであるから、教科書などといった優しげなニュアンスの、読めばわかる、話せばわかるヒューマンな教師ではなく、
谷底に落としてこそ教育と言わんばかりの超スパルタ教師の風合いが強い。
本書より抜粋
「私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。
この世の苦しみを知ったところから真の人生は始まるのです。」
それを言ったらおしまいよ、を車谷氏は最初の相談からぶつけてくる。
それを言ったらおしまいよ、からしか、氏の世界観は始まらないし、その残酷さ、真理性が我々読者には小気味よく感じられるのだろう。
それを言ったらおしまいよ、が我々には足りな過ぎるのだ。
建て前と社交辞令を極度に使用しすぎる結果、対世間の為の言葉遣いが対人生の言葉遣いに、いつの間にかすりかわってしまっているのだ。
人の一生は優しくも甘くもないのだから、当然それに対する言葉遣いも厳しく辛いものでなければ太刀打ちなどできはしないのに。
自分を十分に救ってくれる何者か、もしくは機会が存在するのではないか、そういう願望が我々にはありすぎるのだ。
ゆえに、我々にとって対極に位置する車谷氏の言葉は、臭く、濃く、あまりに鋭く感じられてしまう。
その意味で本書は我々のひ弱さ、諦観の不十分さを測るリトマス試験紙である。
読書感想は自分を映す鏡であるが、本書は特にその趣が強い。
ただ姿を反射する鏡である以上に、「見ろ!」と強引に、しかし淡々と接近してくる不気味な鏡である。
氏の文章の圧迫的な威力についてばかり語ってしまったが、見ようによっては本書は同時に娯楽性も高いのだ。
厳しすぎて、また真理を率直に語り過ぎていて、度が過ぎる故に笑ってしまう。真面目が過ぎるがゆえのユーモアがそこにはある。
「殺してはるなー」どころか「殺しすぎだろ!(笑)」と突っ込まずにはおれなくなるのだが、そんな反応をしてしまうのも私が、車谷氏が言うような「覚悟の足りない人」だからなのだろう。
車谷氏の諦観の域にまで達するのは一般人には到底高すぎる要求であるし、達したいとも思わないのだが、そのうわずみ、もしくは風味だけでもこちとらに摂取しなければ、
自分はただただ愚痴愚痴と嘆くだけのひ弱な人間のまま終わってしまうのではないか、という危機感が、本書を鑑賞中に煽られて私はしようがなかった。
笑ってしまうのだが笑ってばかりもいられないのだった。
この本を笑わずに読むことができる日がいつか来たならば、その時が、私が、生きるのに必要な諦観を十分に体得できた時なのかもしれない。