狼が連れだって走る月―La Luna cuando los lobos corren juntos
翻訳家の管啓次郎さんがポーラ文化研究所「is」や
バベル・プレス「翻訳の世界」=いずれも当時=などに
連載していたエセーをまとめたもの。
タイトルはアメリカ先住民、スー族の言葉で「12月」を意味する。
著者は80年代にはアラバマ、サンパウロ、ホノルルなどを転々とし、
90年代に入るとニューメキシコに学び、シアトルで教鞭を執り、
この作品が発行された頃(1994年刊)には
再びアリゾナ州トゥーソンに暮らしていた。
こうした混沌とした大地にふれれば否応なく、ひとは傷つく。
しかし、それは世界とその歴史の圧倒的な広がりと深さに
覚醒する機会になる──と、彼は言う。
ところで、印象深いくだりの多いこの作品で最も記憶に残っているのは、
歩くことが単なる健康法にとどまらず、
病をいやす“秘磧”であるというところだ。
1974年の冬に、実際に起こった“奇跡”が紹介されている。
パリで死の床にあった映画批評家ロッテ・アイスナーのもとを、
ヴェルナー・ヘルツォークはミュンヘンから文字通り歩いて訪ねる。
彼女は回復し、その後10年を健康で過ごしたという。
バベル・プレス「翻訳の世界」=いずれも当時=などに
連載していたエセーをまとめたもの。
タイトルはアメリカ先住民、スー族の言葉で「12月」を意味する。
著者は80年代にはアラバマ、サンパウロ、ホノルルなどを転々とし、
90年代に入るとニューメキシコに学び、シアトルで教鞭を執り、
この作品が発行された頃(1994年刊)には
再びアリゾナ州トゥーソンに暮らしていた。
こうした混沌とした大地にふれれば否応なく、ひとは傷つく。
しかし、それは世界とその歴史の圧倒的な広がりと深さに
覚醒する機会になる──と、彼は言う。
ところで、印象深いくだりの多いこの作品で最も記憶に残っているのは、
歩くことが単なる健康法にとどまらず、
病をいやす“秘磧”であるというところだ。
1974年の冬に、実際に起こった“奇跡”が紹介されている。
パリで死の床にあった映画批評家ロッテ・アイスナーのもとを、
ヴェルナー・ヘルツォークはミュンヘンから文字通り歩いて訪ねる。
彼女は回復し、その後10年を健康で過ごしたという。
5CD ORIGINAL ALBUM SERIES BOX SET
代表作『コロッサル・ヘッド』が出る前のアルバム6枚のうち、5枚が集まっています。
この時期は、ぼくも、“ロス・ロボス? あっ、「ラ・バンバ」のカヴァーで有名なバンドね”、くらいにしか思っていませんでした。なかなかこの時期のオリジナル・アルバムにまでは手が伸びませんでした。
リマスターはされていません。でも、彼らの前期のラテン・ロックを一気に聴けます。
この時期は、ぼくも、“ロス・ロボス? あっ、「ラ・バンバ」のカヴァーで有名なバンドね”、くらいにしか思っていませんでした。なかなかこの時期のオリジナル・アルバムにまでは手が伸びませんでした。
リマスターはされていません。でも、彼らの前期のラテン・ロックを一気に聴けます。
Los Nis Lobo *** Europe Zone ***
この映画を見る視点として大切なことは、
語り手が主人公の「花」ではなく、その娘(おおかみこども)の「雪」であるということをまず認識するべきです。
そして、物語を、雪の視点で追っていくと納得できる映画です。
よって、
「こんなスーパーマザーは現実にはいない」とか、
「予定調和(話がうまく出来過ぎている)」とか、
「矛盾する点が多々ある」とか、
そういった感想は、この映画においては、あまり意味を成さないかと思います。
この物語では、主人公の「花」がいつもニコニコ、弱音を吐かず振舞う姿が描かれていますが、
それは、こどもである「雪」から見た母の姿といえます。
花はきっと、こどもの前では弱音を吐いたり、辛い感情を見せたりという事をしなかったのでしょう。
予定調和や矛盾点については、
例えばですが、
「雪が花に聞いた話(例えば、お父さんはどんな人だったの?と聞いたとか)」、
もしくは、
「花が雪に語り聞かせた話(例えば、雪が小さい時はこんな状況だったんだよ。とか)」、
そういったものを前提としてこの物語が語られた場合、
そもそも、花が本当の事実を雪に話していなかった可能性もあるわけで(^^;
(親としてこどもに語りたくない事も、もしかしたらあったのかもしれません)
おとうさんのエピソードがぼやけていたり、
弟の雨の心情があまりハッキリ描かれていないのも、
この物語自体が、雪の視点+母から聞いた話、という眼差しで見ると合点がいきます。
だからこそ、
こどもである雪の視点からは見えなかった、
物語の中では“語られていないこと”にこそ、
大事なものが隠されているように思えます。
ちいさなこども「雪」が語る
「わたしのおかあさん、スゴイの!わたし、大好きなの!」を、
「うんうん」と優しく頷きながら、
花(母)や雨(弟)の心象風景を想像しながら見ると、
深見のある作品としてこの映画を見ることが出来ると思います。
私はこの作品が好きです。
観れば観るほど、新たな発見があります。
物語、映像、音楽も、どれも素晴らしいと感じます。
これからこの作品を観る方も、ぜひ物語の中へ入り込んで楽しんでください!^^
語り手が主人公の「花」ではなく、その娘(おおかみこども)の「雪」であるということをまず認識するべきです。
そして、物語を、雪の視点で追っていくと納得できる映画です。
よって、
「こんなスーパーマザーは現実にはいない」とか、
「予定調和(話がうまく出来過ぎている)」とか、
「矛盾する点が多々ある」とか、
そういった感想は、この映画においては、あまり意味を成さないかと思います。
この物語では、主人公の「花」がいつもニコニコ、弱音を吐かず振舞う姿が描かれていますが、
それは、こどもである「雪」から見た母の姿といえます。
花はきっと、こどもの前では弱音を吐いたり、辛い感情を見せたりという事をしなかったのでしょう。
予定調和や矛盾点については、
例えばですが、
「雪が花に聞いた話(例えば、お父さんはどんな人だったの?と聞いたとか)」、
もしくは、
「花が雪に語り聞かせた話(例えば、雪が小さい時はこんな状況だったんだよ。とか)」、
そういったものを前提としてこの物語が語られた場合、
そもそも、花が本当の事実を雪に話していなかった可能性もあるわけで(^^;
(親としてこどもに語りたくない事も、もしかしたらあったのかもしれません)
おとうさんのエピソードがぼやけていたり、
弟の雨の心情があまりハッキリ描かれていないのも、
この物語自体が、雪の視点+母から聞いた話、という眼差しで見ると合点がいきます。
だからこそ、
こどもである雪の視点からは見えなかった、
物語の中では“語られていないこと”にこそ、
大事なものが隠されているように思えます。
ちいさなこども「雪」が語る
「わたしのおかあさん、スゴイの!わたし、大好きなの!」を、
「うんうん」と優しく頷きながら、
花(母)や雨(弟)の心象風景を想像しながら見ると、
深見のある作品としてこの映画を見ることが出来ると思います。
私はこの作品が好きです。
観れば観るほど、新たな発見があります。
物語、映像、音楽も、どれも素晴らしいと感じます。
これからこの作品を観る方も、ぜひ物語の中へ入り込んで楽しんでください!^^