バッハ, J. S.: 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 BWV 846-869/ヘンレ社原典版(2007年改訂版/A. シフによる運指付き)
2007年の校訂で、バッハ弾きとして有名なピアニスト、アンドラーシュ・シフによる運指が付されています。
市田版 ほど凝った運指ではありませんが、よい運指のようです。
譜面については、細かく比べたわけではありませんが、例えば第2番前奏曲の終音には、旧版ではモルデントが付されていましたが、この版ではベーレンライター版にならい、外されています。
(市田版にある、各原典版対照表は、ヘンレ版については旧版との対照、ということになります)
解説はシフ自身によるものですが、他のヘンレ版と同様、英独仏語で同じ内容でわずかにあるだけです。
これを使うとしたら、他に解説の豊富な版か、解説書があった方がよいでしょう。
店によってはまだ、旧版をそのまま並べているところがあるので、間違えないよう、気をつける必要があります。
譜面の最初のページ(この本だと前奏曲1番)の下にマルC2007とあるのが新版です。
洋書コーナーにあるこれ も内容は同じなので、安く買えます。こちらも2007年版であることを確認しました。
市田版 ほど凝った運指ではありませんが、よい運指のようです。
譜面については、細かく比べたわけではありませんが、例えば第2番前奏曲の終音には、旧版ではモルデントが付されていましたが、この版ではベーレンライター版にならい、外されています。
(市田版にある、各原典版対照表は、ヘンレ版については旧版との対照、ということになります)
解説はシフ自身によるものですが、他のヘンレ版と同様、英独仏語で同じ内容でわずかにあるだけです。
これを使うとしたら、他に解説の豊富な版か、解説書があった方がよいでしょう。
店によってはまだ、旧版をそのまま並べているところがあるので、間違えないよう、気をつける必要があります。
譜面の最初のページ(この本だと前奏曲1番)の下にマルC2007とあるのが新版です。
洋書コーナーにあるこれ も内容は同じなので、安く買えます。こちらも2007年版であることを確認しました。
Bach: Das Wohltemperierte Clavier
シフ「独特」がいいとか悪いとかでなく、これがバッハの美しさ。これが本質だったように感じます。以前のシフを越えて、感動させられました。あらゆる細部に神経が通い、血の通った演奏。何度も何度も聴いても飽きません。
レコード芸術 2011年 07月号 [雑誌]
クラシック雑誌はどのみちネタ切れだ。一批評家を大々的に特集するとは新しい意匠で、私は面白いと思った。97歳でこれだけ明晰に話せ、書けるというのは素直にすごい。ギネスものではないかと思う。アメリカには100歳を超えて作曲しているエリオット・カーターみたいなのがいるとはいえ、だ。スーパー老人たち。
問題は、吉田秀和のどこが、なぜ偉いのか、納得させてくれないことだ。偉いことが前提になっている。新著の「永遠の故郷」は、最初から「未曾有の傑作」ということになっている。そして、「吉田秀和賞受賞者」たちが吉田に捧げる歯の浮くような美辞麗句・・・読んでいて吐き気がしてくる。業界的配慮の塊りのような文章群で、繰り返し使われる「批評」という言葉が皮肉のように届く。
「永遠の故郷」を読んではいないが、小林秀雄晩年の「本居宣長」が出版された時を思い出す。大家の晩年の作、誰も文句が言えない、大傑作に違いない、という空気。私は読んだが、そんな面白くなかったぞ。でも、文句が言えない。批評家が「批評」を無力にする皮肉。どうせどっかの文学賞がついてくる・・・。そして静かに忘れられていく。批評家の銅像は建たない、と言ったのはゲーテだったか。
吉田秀和の文章はもちろんたくさん読んできた。別の評者も指摘する「かしら」文・・・フェミニンな文章で、ときどき気持ち悪いが、読みやすく、ためになった。読者として感謝してます。だが、要するに解説の人、紹介の人で、モーツアルトの交響曲を編纂しなおすような学者的業績があるわけではなく、国境を越えて影響力をもった文人でもない。音楽や演奏家の選択も穏当さが特徴で、ひとことで言えばディレッタント。山の手文化、都会派の文化エリート、高等遊民、旦那芸、啓蒙主義、微温的、お上品、お金持ちのご趣味的な、要するに朝日新聞文化部的なかほり。それのどこが、それほど、偉いのか。
特集を読んで、なんとなく分かるのは、批評家としての偉さというより、自ら「アドミニストレーションの仕事を押し付けられてきた」と言う、その業界の隠然たるアドミニストレーターとしての役割だ。ヴァン・ウォルフレンが指摘した、日本の秩序の守り手としての非権力者的な権力者。スポットを浴びる武満徹や小沢征爾の背後で、官僚的目配り手配りで日本のクラシック界の秩序とイメージを保守しつづけた、その力の大きさではなかったか。
そうした役割を否定的に評したいわけではない。その存在の意味を、雑誌として音楽社会学的(そんな学問がたしかあったろう)に読者に示してほしかった。
問題は、吉田秀和のどこが、なぜ偉いのか、納得させてくれないことだ。偉いことが前提になっている。新著の「永遠の故郷」は、最初から「未曾有の傑作」ということになっている。そして、「吉田秀和賞受賞者」たちが吉田に捧げる歯の浮くような美辞麗句・・・読んでいて吐き気がしてくる。業界的配慮の塊りのような文章群で、繰り返し使われる「批評」という言葉が皮肉のように届く。
「永遠の故郷」を読んではいないが、小林秀雄晩年の「本居宣長」が出版された時を思い出す。大家の晩年の作、誰も文句が言えない、大傑作に違いない、という空気。私は読んだが、そんな面白くなかったぞ。でも、文句が言えない。批評家が「批評」を無力にする皮肉。どうせどっかの文学賞がついてくる・・・。そして静かに忘れられていく。批評家の銅像は建たない、と言ったのはゲーテだったか。
吉田秀和の文章はもちろんたくさん読んできた。別の評者も指摘する「かしら」文・・・フェミニンな文章で、ときどき気持ち悪いが、読みやすく、ためになった。読者として感謝してます。だが、要するに解説の人、紹介の人で、モーツアルトの交響曲を編纂しなおすような学者的業績があるわけではなく、国境を越えて影響力をもった文人でもない。音楽や演奏家の選択も穏当さが特徴で、ひとことで言えばディレッタント。山の手文化、都会派の文化エリート、高等遊民、旦那芸、啓蒙主義、微温的、お上品、お金持ちのご趣味的な、要するに朝日新聞文化部的なかほり。それのどこが、それほど、偉いのか。
特集を読んで、なんとなく分かるのは、批評家としての偉さというより、自ら「アドミニストレーションの仕事を押し付けられてきた」と言う、その業界の隠然たるアドミニストレーターとしての役割だ。ヴァン・ウォルフレンが指摘した、日本の秩序の守り手としての非権力者的な権力者。スポットを浴びる武満徹や小沢征爾の背後で、官僚的目配り手配りで日本のクラシック界の秩序とイメージを保守しつづけた、その力の大きさではなかったか。
そうした役割を否定的に評したいわけではない。その存在の意味を、雑誌として音楽社会学的(そんな学問がたしかあったろう)に読者に示してほしかった。