笙野頼子は、ぶっちぎりのエンターテイメントとして読んでます。
物語を読む量が閾値を超えると、デジャブ感覚におそわれることがあります。
『ブレードランナー』を観ていて、あぁ『野良
犬』だなとかね。
実際に引用が行われたか否かより、デジャブ感覚というなにか、頭に刺さったとげのようなモノを抜きたいのです。
物語が好きでたくさん読んだのに、カンタンに楽しめないという悔しさ。
『二百回忌』では、”死んだ身内もゆかりの人も皆蘇ってきて、法事に”でます。
『二百回忌』は、言葉のアヤではないのです。
”ヨソノ家デハ誰モ蘇ッテ来ン”と母は言い、両親がこのことを恥と思っていない様子から、蘇りは、不思議なことではあるけれど、それぞれの家にある独特なしきたりに似た、いとなみであることが、腑に落ちます。
おもしろい映画のはじまりに感じる予感があります。すべては見通せない、でも共感、リズムがいい、といった言葉が渾然となった、どこかうれしいアナログ的感覚です。ワクワク。
もちろん、笙野さんの小説には、それがあるといいたい。
この本の
タイトルは『笙野頼子三冠小説集』とあり群像野間三島芥川泉伊藤で、計六冠。
自分くらいの本読み(なぜかえばってる)が好きな作家でも、どこかエンタメのニオイがすると、かしこい系の賞を取れないことは、ママあるなかで、うれしいし、おもしろさのお墨付きという、外部からの証明は、本屋さんにおいてもらいやすいので、なによりです。
ヨイトコロまだまだあり。映像的だし。SFもかけるし。ドメスティック(日本、その村や村社会)でありながら、ユビキタス(偏在、普遍、、、妖精の目で妖精を見る)的な新しい神話とも思えるし。
なんというか、大好きですね。
蛇足ですが、
言っている文章はわかるのだけれど、何を語りたいのかわからない、という人もいると思います。それは、書いてあるフェミや私小説家やそのほかのテクニカルタームを正式な意味でとらえようとして、作家の言い方や言い草に気が回っていないのです。
蛇足の二つ目ですが、彼女の作品で『金毘羅』があります。
実際の金毘羅は、クンピーラ、インドの神様で
ガンジス川のワニ。ヒンズー教。このワニが、仏教に取り込まれて帝釈天となるのですがなぜか、昔の名前、コンピラで出ています。また、廃仏毀釈の荒波で、お寺から神社に宗旨替えするというウルトラCを決めたこともあります。恨みの人、崇徳天皇が眠っているので、明治天皇も即位してから真っ先に訪れたとも、聞いています。また、山の上につくられた宗教施設なのに、海運の神様です。そして、、、
ホントにまだまだフシギはあるのですが、
コーユー知識と作品とは、まったく関係してません。
ただ、日本というわけのわからなさ、家というわからなさ、こんぴらというわからなさ、といったわからさと、通底はしているのかもしれません。
そして、このわからなさの正体は、依り代、だなと予測してます。