東京の自然史 (講談社学術文庫)
名著復刻に拍手。
東京は関東ローム層の上に、低湿地と丘が複雑に入り組んだ場所であった。
徳川家康入城期、今の日比谷も新橋もうみの中であった。
羽村にある「まいまいず井戸」は、当時の技術では垂直に掘ることが出来なかったため
台地を巻くように掘り下げた道を作り、低くした土地に井戸を掘ったものである。
目黒の爺々ガ茶屋を描いた歌川広重の浮世絵は、背景の満々と水をたたえた
目黒川が流れている。ここまで簡単に海から船の往来ができたのである。
落語『目黒のさんま』の舞台である。
池上本門寺蕎麦の崖には、関東ローム層がむき出しになっている。
本書を読んでから、東京散歩に出るのも仲々、乙なものではないか。
趣味の鉱石トレジャーハンター―鉱石採集探険記
著者の鉱石トレジャー人生が詰まった良本。採掘に関して著者なりの哲学も見え隠れしており、とても参考になりました。
本書は関東近辺が中心ですので、次作は関西、東北、など別地域にも足を伸ばしていただければと!
三陸海岸大津波 (文春文庫)
東北の三陸地方は今回も含めて考えると、この100年程度の間に4度の大津波が来ている。本書では、明治29年、昭和8年、昭和35年の大津波をそれぞれ当時の生存者の声、報道写真、記事などを克明に拾い上げ、津波の前兆、実地被害について、独特の臨場感を醸し出している。
作者も言っているが、自身は地震、津波の専門家でもなく、予備知識もほぼない。いわば全くの素人である。それが素人の目線で史実を徹底的に追跡し、簡易な表現で冷静にそのまま表現したのだ。よって、表現も平易で読み進むごとに慄然とさせられ、まるで蟻地獄のように、「その世界」に引き込まれた。
私自身、本書は震災後に初めて読んだこともあって、過去の3度の被害がまるで、今回のそれの描写ではと何度も驚いた。被災地域名、海岸、河川、漁港名称など、毎日の報道と同じだ。津波の襲ってくる様子を記述した表現も、今回の映像を見ると驚くほどピッタリだ。
吉村氏も、東北の大地も海も、皆知っていたのだ。大地震、津波が襲来するとこうなるということを。それを現代人が「想定外」というのは、臭いものに蓋をして「想定」から「外」しただけではないのか。その意味では人災の側面も否定できない。昭和8年前後の出来事からなら、まだ記憶している住民も多かったろうに。
吉村氏によると、過去の大津波の後、居住禁止になった地域が三陸沿岸部にはいくつもあったが、やがて世代も変わると、居住禁止地域に民衆は戻ってきたという。また、400年足らずの間に、大小の津波被害が少なくとも20件発生しており、人的被害なども出ているのだ。
過去3度と今回が異なる点は、デジタルデータで被害状況が膨大に蓄積されているため、後世に伝える情報量が過去とは比較にならないことだ。今後津波の襲来自体を避けることはできなくても、徹底的な防御を講じ、民の安全を確保することは出来る筈だ。吉村氏が存命なら今回の被害には何と言うだろうか。
アースダイバー
中沢新一という人がどんな人で何を研究している人か、個人的にはさして興味を持ってこなかったのだけど、こういう本を書いて、それがそれなりに受け入れられているというのは、著者にとってはおそらく悪いことではない。
(20年くらい前にこれを書いてたら、もっとボコボコにされるか、あるいは一顧だにされないかのどちらかであったと思う。)
批判する人がいてもいいし、そうした批判を受けるだけの理由がこの東京論には実際あちこちにある。どうも気に入らない、こんなもんに付き合ってられないという人は、こんな本、捨ててしまえばいいのである。
けれども、捨てる神あれば拾う神あり。
洪積層だの沖積層だの、あるいは資本主義だの神話だのとアカデミックっぽく理性的めかして書いてはいるけれど、おそらくそれらの外貌そのものは、著者にとってはぜんぜん重要ではないのだろう。実証だの論証だのをもってしては決して届かない世界の闇。そこへ向けて自らの五感を作動させようとすること自体に、おそらくこの思索の意味はある。
実際にその土地を歩き回ることによって、アタマではなく、カラダで妄想する。それを無意味だと思うのなら、この本に意味はない。けれども、そこから何かざわざわするものを感じ、何かを考えようと思えたのなら、それでこの本を読んだ甲斐はあったと言えるのではないか。
評者としては、参考文献なんか離れて、もっともっと自由奔放に妄想してもよかったでのはないか、と思う。もっとも、そんなことをしたらもっともっとワケノワカラナイものに仕上がってしまった可能性は大なのだが。