変人 埴谷雄高の肖像 (文春文庫)
インタヴューを通じて、一人の人間の人となりを現す手法によって、立ち現れた埴谷雄高は、書くことに人生の時のすべてを投じた方のようでした。作家は、書くという行動、書くという経験によって成長してゆく人生を選んだ人間なのでしょうが、しかし、一方で、ただの言葉や思想のつらなりを、つらつら書いて実人生を過ごすという、時をいたずらに蕩尽して仮想の人生を生きて一生を終えてしまう危険もはらんでいます。作家とて、生身の人間で在る以上、実人生の私的生活の大波小波は体験するのでしょうが、書いて書いて書いて終える人生は、一体、実際に生きた人生といえるのだろうか、よくわかりません。本当に生きるとは一体、どういうことなのだろうかを、考えさせる作家の生きざまでした。
我が心は石にあらず―高橋和巳コレクション〈8〉 (河出文庫)
本作品は、中途までは、該博な教養、知識、つまり彼の本業は中国文学なのだが、経済や労働運動、工学への薀蓄が深く描写されていて、それに比較してドラマとしての進展が少々退屈気味であった。その長い滑走を経て、いったん飛び立ったと思ったら、結末に向かってグイグイ上昇していった。労働争議も、男女の関係も、この先どうなっていくのだろうとハラハラして、読むのが止められなくなってしまった。
研究所員で、労働者組織のリーダーである主人公信藤誠は、理性的でそう過激ではない。その人徳と保守ではないが既成左翼にも組していない思想によって労働者の広範な支持を得ていた。そんな彼を破滅させたのは、読者の予想を裏切って不倫問題によってではない。組織の裏切りによる争議の背後からの撹乱に敗北したのだ。
いつの時代にも分裂分子、スパイといったものがいるが、それをテーマにしたがゆえに、60年代70年代の高揚した反体制運動に共鳴した人々の興味ある作品となったのだと思う。
さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて
タイトルの『さようなら、ゴジラたち』は、完全に失敗だと思います。
今後、著者はこのタイトルを自分がつけたことに対して、苦しむでしょう。
克服してほしいですが。
間違いを間違いと認められるかどうかが、ポイント。
今までこの書き手は「一人勝ち」だったろうから、負けに慣れていない。
ただ大袈裟に言うと、間違いを認められなければ徐々に活力を失っていき、脱落するだろうと思います。
ちなみに「戦後から遠くはなれて」だったかで言及している内田樹は今後、手のつけられない状態になっていくと推測しています。
アルヴォ・ペルトの世界~アルボス
アルヴォ・ペルトの世界
旧ソ連、エストニア出身のアルヴォ・ペルトを聴き出したのは、『アルヴォ・ペルトの世界』というディスクがECMから発売された1987年あたりから。そのうちの1枚が本盤。
久しぶりに聴いてみると、収録のどの作品も古びていないというか、もともとがバロック音楽のようなテイストなので400年や500年も聴かれてきた音楽のようでもあり(そうではない現代的な面もあるように思うが)、不思議な感動に浸らされた。
演奏者のヒリアード・アンサンブルの歌唱・合唱が素晴らしく、さらにギドン・クレーメルのヴァイオリンが物凄い。最後に入っている『スターバト・マーテル』が本盤の白眉だと思うが、静かに、低く、重く、大いなるものを下から仰ぎ見るように慎ましく、まるで前に進むのが神に対する不敬であるかのごとくゆっくりと動く音楽のなかで、3箇所クレーメルを中心とする弦楽の走句が挟まれる。
それはある意味、この曲が現代音楽であることの証しとも言えるのだが、それもクレーメルのまったく歌わない、甘さを徹底して排した超絶ヴァイオリンのゆえだろうと思う。衝撃的な音楽である。とは言え、その音楽自体は、決して現代音楽風の難解なものではないのだが。
現在、ペルトはどのように聴かれているのか?
ガス・ヴァン・サントの映画音楽などでも活躍している模様だ。『ミゼレーレ』やこの曲には、現代のシュッツという趣きを勝手に感じているのだが・・・。白石美雪のライナーノーツには、「反ミニマリズム」と書いてある。なるほど、それはそうだな。
近年、ブルックナーのシンフォニーをリリースしていたデニス・ラッセル・デイヴィスの指揮によるタイトル曲『アルボス』も不思議な魅力を持った忘れ難い作品だ。
それと、そうなんですな。
このアルバム、芭蕉の句が掲げられており、アンドレイ・タルコフスキーを追悼する旨が記されている。タルコフスキーは1986年に亡くなっている。
タルコフスキーの映画作品『ノスタルジア』や『鏡』などには祈りの映像作品という印象が強く残っているが、同じくペルトの音楽も「祈りの形式」というようなものなのだろう。“ティンティナブリ”だとかセリーの形式と言われ、前者は聖職者の鳴らす鈴の音というような意味もあるそうだが、素朴な祈りの慎ましさを最も感じる。
魂の高揚だとか、快活な気持ちにさせられることはほとんどないが、いつの時代も様々な不幸や悲しみを抱えるということが普遍的な事態であり、個々人はその悲しみに独りで潰されるのではなく、その悲しみをある共同性に導くためにこの音楽があるのだとしたら、これは今こそ聴かれるべき音楽である。
うん、回りくどいなあ。この音楽には、人間が本来求めて止まない(らしい)宗教の純粋なかたちが現われている。
偽悪的に言えば、ペルトの音楽は悲しみに淫するような真面目すぎる音楽であるが、そこには畏怖やパスカル的な存在論、神の前の無力といった、人間の敬虔で謙虚な姿への希求や渇望がある。ペルトの音楽には、ほとんど絶滅危惧種の稀少性があるのではないか。畏怖というが、それは大いなるものヘの予感や、他者への畏れというものではないかと思われる。
日本の悪霊―高橋和巳コレクション〈9〉 (河出文庫)
没後25周年を記念して埴谷雄高、川西政明の監修で発行された。
『憂欝なる党派』と並ぶ代表作、高橋和巳の罪と罰を鬱々と描き出す独特の世界に思わず時を忘れる。
巻末の三島由紀夫との対談『大いなる過度期の論理』と三枝和子のエッセイ『わが青春の京都時代』も興味深い。