安岡正篤一日一言
購入してから毎日読んでいる。一言一言がこころにしみる。
生きていく道しるべとなってくれている。
安岡正篤の本は、読みこなすことがむずかしい。
この本の一文は、短いだけにこころの琴線に触れる。
より勉学に励まなければと自分に考えさす。
歌行燈・高野聖 (新潮文庫)
この年になって泉鏡花でもないのですが(中年になってマルクスを初めて読むようなもんですか)、遅まきながら読んでみました。あくまでも現代の文体なのですが、その文体と言葉のつなぎ方には独特なものがあります。この年になってしまうと、作品自体に「ホラー」を感じることもありません。「エロス」といわれても、現代の視覚からの刺激に慣れてしまったものには、芸術への鋭敏な感覚を持つ恵まれた人以外には、それをリアルにこの作品から知覚するのは無理なようです。むしろここに存在するのは、今は消え去ってしまった世界(風景、道具、感情と習慣)の思い出への憧憬のようです。まだその前の「江戸」とのつながりが、かすかに生活の一部に残っていた明治時代の残滓への郷愁と憧憬こそがここに描かれているようです。明治の終わりや大正の時代から思い出された過去の思い出、これが鏡花の世界なのです。作品に登場する女性の描写も独特で、或る意味では「独りよがりの」視角と思い入れがあります。そういう意味で、鏡花が1939年に死去しているというのは意味深ですね。歌行燈は複雑な構成の作品です。巻末やネットでの解説を読んでやっとその作品の全体像がつかめたところです。悲しいながら、自分の能力の限界を再認識したところです。
きりぎりす (新潮文庫)
何よりもまず「懐かしい」という感情が先に立った。
この自意識過剰さ、自己否定と自己弁護との繰り返し、これはいわゆる「思春期」に特有のものではないか。太宰は一生涯ずっと、肉体年齢に精神年齢がついていかなかった人だったのではあるまいか。そう思えた。
か細いきりぎりすの声にまですがらねばならぬ繊細さは、はっきり言って「本当に生きている」周囲の者には迷惑極まりなかっただろう。
それでもなぜか魅力を感じる、それが太宰。
ハートに火をつけて
ジム・モリスン(vocal)、レイ・マンザレク(organ,keyboard bass,piano)、ロビー・クリーガー(guitar)、ジョン・デンズモア(drums)
からなるアメリカのロックバンド、ドアーズが1967年にリリースしたデビュー作です。
ジム・モリスンのカリスマ性ゆえか、時代の代弁者みたいな存在として語られることもあるが、基本的にはアーティスティックに特化した純粋
なグループ。時勢の地鳴りから出現したのは間違いないが。
魅力はまず何といってもモリスンの詩。それを体現する上での高度な音楽性。マンザレクが代表だろう。ベースパートを代用してることもある
が、それ以上に様々な音楽様式(ブルース、ロック、ジャズ、クラシック)を自由闊達に取り入れた彼の存在はバンドの接着剤として効用し
欠かせない存在。フラメンコギターをルーツに持つクリーガーは激情的であり、ブラジル音楽に影響されたデンズモアは重厚かつ軽快だ。
これらの個性が渾然一体となった本作はやはり最高傑作だ。よく思うが出自があべこべなんだ。後の良い意味でのポップ路線やブルージー路線
を逆に辿ってくるとこれになる。叙述トリックが加味された上質な倒叙ミステリーを読むように。。別格の完成度だから皆これを聴き込む。
いつまでも追いつけない。未だに扉はあんなにも先に見えると、まだまだ届かないと。違うんだ。そこから入ってきたんだ。
すべてが伏線。「ジ・エンド」への伏線。終わりにして始まり。苛烈なほどに単純な衝動で崩壊「ブレイク・オン・スルー」。不気味な戯れ
「ソウル・キッチン」。緑色に澄んだ音響に憂愁のかげりが落ちる「水晶の舟」。想像をかきたてる果実畑「20世紀の狐」。社交的な
アンサンブルは珍味中の珍味「アラバマ・ソング」。冷たいお花畑で焼身自殺「ハートに火をつけて」。さてこれは何の様子を歌った曲
でしょう?(微笑)、縷縷とした好奇心「バック・ドア・マン」。煌々と照り輝く「君を見つめて」。幽邃とした音の広がりはいやでも情感を
誘い出す「エンド・オブ・ザ・ナイト」。一見大胆、でも雅秘める「チャンスはつかめ」。そして、自他ともに傷つけるようなエモーションが
いつ瓦解するかわからぬ危うさとなり霧の中を動く影のように忍び寄ってくるのが例の曲。フィナーレへ向かうすさまじき迫力は形容の言葉を
封じる。終わり。